遠い記憶


「……また同じ夢だったな。」
 布団の中に潜り込みながら、トロトロとまどろんでいたアンジェリークがポツリと呟く。
「アンジェリーク。いい加減に起きなさい。学校に遅れても知らないわよ。」
 一階から自分を呼ぶ母の声に、アンジェリークは壁に掛けてある時計を見上げ、一気に目を覚ました。
「お母さん。何でもっと早く起こしてくれなかったの? これじゃあ、遅刻しちゃう。」
 あっと言う間に制服に着替え、胃に流し込むように朝食を取るアンジェリークが母に抗議する。
「何度も起こしたわよ私は。起きないあなたがいけないんでしょ。ほらもう行きなさい。走っていけば大丈夫。間に合うわよ。」
 母はサラリとそう言って、窓の外から見えるスモルニィ女学院の赤い屋根を見ながら娘を送りだした。


「………って夢なの。いつもそこで目が覚めちゃうから出てくる人の顔もはっきり見えないんだけどね。この所その夢ばっかりでさ…何だか気になっちゃって……。」
「へーえ、そうなんだ。だけどさ。アンジェって、前にもよく見る夢があるって言ってなかったっけ? 結構多いのよねアンジェは。同じ夢を繰り返し見るのって。」
 放課後、いきつけの喫茶店の中でアンジェリークは、友人達に今朝方見た夢の話をしていた。
「うん。それは初等部の頃に、よく見ていた夢なんだけどね……。」
 アンジェリークは友人に、危うく車に引かれそうになった自分を一人の人が助けてくれる夢なのだと話した。
「王子様の話でしょ。アンジェにとって。この娘ったらね。初等部の頃、王子様に助けてもらった夢を見ちゃったって言ってたのよ。」
「へぇー。今時珍しい。王子様信じてるなんて……。」
 呆れたような口調の友に、アンジェリークが真っ赤になって反論する。
「小さい頃の事だってば。もうっ。」
「はいはい、解りました。解ったからもう帰ろ。これ以上長居してたら生活指導の先生に見つかって大変だものね。うちの学校って変にそう言うトコ厳しいのよね。」
 拗ねた口調のアンジェリークは、友人達に宥められながら店を出て、それぞれの家路についた。


「ボール遊びをしているあれは……私? そう言えば庭で遊ぶのが大好きだったっけ……。」
 いつの間にか眠りについたアンジェリークは、友人達に昼間話していた幼い頃の夢を見ていた。
 幼いアンジェリークは、ピンク色のボールを空高く投げ上げている。
 と、その手からボールがこぼれ、幼いアンジェリークはボールを追いかけて庭の外へと飛び出した。
「危ない!」
 アンジェリークは思わず叫び声を上げ、顔を手で覆う。
 そっと顔を上げると、幼い自分を抱えたまま地面に座り込んでいる一人の少年の姿が見えた。
 銀糸の髪とルビーの瞳の少年が、泣きじゃくる幼い自分を抱き上げ、必死に慰めていた。
 そのうち視界がぼんやりと歪み、アンジェリークはどこか別の場所に飛ばされる感覚を覚えた。
「………ここは…何処?」
 真っ暗闇の世界にポツンと佇んでいるのに気がついたアンジェリークが辺りを見渡し呟いた。
「な…何? 眩しい。」
 突然辺りが真っ白に光り、アンジェリークはあまりの眩しさに目を閉じる。
 そっと目を開くアンジェリークの視界に、幼い自分を事故から救ってくれた先程の少年が、大木に足を挟まれ動けずにいる姿が映った。
「あ……これって……。」
 隣りにいるもう一人の少年の姿をはっきりと確認したアンジェリークが目を丸くする。
「これって……昨日見た夢……。」
 今、アンジェリークの目の前で繰り広げられている状況は、確かにこの数日、度々見ていた夢であった。
『二人共、死なないで!』
 誰かの叫び声が辺りに響き渡ると、少年の足の上に乗っていた大木が粉々に砕け散った。
 そうして立ち上がった少年の指さす先に、アンジェリークは金色の光りに包まれた自分の姿を見た。
「………私?」
 驚き呟くアンジェリークは、フワリと持ち上がる様な感覚にゆっくりと目を覚ました。
「アンジェリーク。いくら学校がお休みだからって、もういい加減に起きたらどう?」
 ベッドの上に身を起こしたアンジェリークは、母の声にぼんやりとしながら着替え始めた。


「ねぇ、アンジェ。元気だして。タルトおごるから。」
「そうよ。それとも気分転換にゲームでもする? どんなのでも付き合うわよ私。」
 学院長に呼び出され、女王候補の一人として指名された事を告げられたアンジェリークは、放心状態のまま帰宅の途についた。
 そんな彼女を気遣う友人達の言葉に、道路の向い側にあるゲームセンターの方へと視線を向けたアンジェリークが突然立ち止まった。
 あっ、と友人達が思った時には既に遅く、アンジェリークは道路へ飛び出していた。
「待って! あの……。待って。」
 アンジェリークに呼ばれて振り返った少年は、驚いた顔で彼女の方へ駆け寄った。
「きゃあああっ! アンジェ!」
 友の叫び声に足を止めたアンジェリークは、その時初めて自分に向かって走ってくる車の存在に気がついた。
 恐ろしさに目を閉じると、身体が宙に浮く。
 そっと目を開けたアンジェリークは、自分がしがみついている人物を見て目を見開いた。
『この人……この間の夢の……………。』
 この間夢に見たのと同じ、銀糸の髪にルビーの瞳の少年が、自分を抱え込むように地面に座り込んだまま、睨みつけていた。
「死にてーのか、てめーは! 何、飛び出してるんだ。って……おい。何、呆けてるんだよ。」
「……あの…以前、何処かでお会いしませんでした?」
 目の前で不思議そうな顔をしている少年に、アンジェリークは問いかける。
「……知らねーよ。じゃあな。」
 埃を払い背を向けて歩き出した少年の、軽く挙げられた左手にうっすらと血が流れているのを見つけたアンジェリークが、少年を再び引き留める。
「何だってんだよ。おめえは一体。」
「ごめんなさい! 私のせいですよね、これ……。すぐ手当しますから。」
 アンジェリークはそう言って、ポケットから取り出した真っ白なハンカチを、少年の傷ついた手にあてた。
「おい、こんなのほっといたって平気だからよせよ。ハンカチが汚れるぞ。」
「良いんです。バイ菌が入ったら大変……………。」
 突然言葉を失ったアンジェリークに、少年が不審そうな顔を見せる。
「あっ、ごめんなさい。何でもないんです。ただ私、小さい頃にも車に引かれそうになった所を助けてくれた人にハンカチを結んであげたなって思って……。それで、その人とあなたがそっくりなの思い出して……。そんな事、ある訳無いですよね。あの……本当に危ない所をありがとうございました。」
 深々と礼をして、アンジェリークは少し離れた所にいる友の元へと走っていった。
 残された少年は、そんな彼女の後ろ姿を複雑な表情で見送っていた。


「これでこの飛空都市の案内は終わりです。明日からの試験に備え、ゆっくりと休んで下さいね。」
 飛空都市を案内し終えた女王補佐官のディアが、アンジェリークに笑顔を見せて帰っていった。
 一人になったアンジェリークは、口の中で何かを呟きながら部屋を出て、公園へと向かっていった。
 キョロキョロと辺りを見回すと、花畑の中に緑の守護聖マルセルの姿が見えた。
『やっぱり……そう。夢の中に出てきた男の子。』
「あれっ? アンジェリーク。また会ったね。………どうかしたの? 僕の顔に何かついてる?」
 アンジェリークを見つけ笑顔を見せるマルセルは、無言で自分を見つめるアンジェリークに怪訝な顔をする。
「……あっ。すみません。何でもないんです。えっと……マルセル様……でしたよね。さっき公園に来た時いらっしゃったもう一人の守護聖様は……。」
「……ゼフェルの事? アンジェリークはゼフェルの事が気になるの? 妬けちゃうな。」
 尋ねるアンジェリークをマルセルがからかう。
「えっ? いいえ! あの…そんなんじゃなくって………。私、主星であの方にお会いした事があるような気がして……それで確かめたくって………。だって守護聖様達は聖地にいらっしゃるんですよね。」
 ブンブンと手を振って否定するアンジェリークに笑顔を見せながらマルセルが手招きをする。
「あのね、ゼフェルってね。よく聖地を抜け出して外に遊びに行ってジュリアス様に怒られてるから、君が見たのは本当にゼフェルかもよ。」
 マルセルに小声で耳打ちされた言葉に、アンジェリークが呆然とする。
「そ…そんな事あるんですか? じゃあ、本当に私が会ったのは………。」
「ゼフェルかもね。部屋に帰ったみたいだから行ってみれば? ゼフェルってさ、言葉使いがちょっと乱暴だけどあんまり気にしないでね。悪気があって言ってる訳じゃ無いんだからさ。」
 そう言ったマルセルに礼を言って、アンジェリークは鋼の守護聖ゼフェルの執務室へと向かった。


「……こんにちは。ゼフェル様。失礼します。」
 ややしばらく扉の前を行ったり来たりしていたアンジェリークは、意を決して執務室の中へと入った。
「な…なんだよ。またおめえかよ。俺に何か用なのか? まだ試験は始まってねーんだぞ。」
 突然やってきたアンジェリークに驚いたゼフェルは、ぼんやりと眺めていた手の中の物を、慌てて身体の後ろに隠す。
「…? あの…ゼフェル様。何か落ちましたけど……。」
 ゼフェルの後ろから、ヒラリと自分の足下に舞い降りた赤い布を拾い上げたアンジェリークが動きを止める。
「これ……私の………。」
 アンジェリークが拾い上げた布は、幼い子供のたどたどしい文字で名前の書かれた小さなハンカチだった。
 幼い頃、お気に入りのクマの絵のハンカチに、覚えたばかりの自分の名前をしっかりと書いた記憶があった。
「……ちっ。やっぱりあの時のチビはてめえかよ。」
 頭をかきながら呟くゼフェルを見つめていたアンジェリークが、丸くした目をさらに丸くする。
 銀糸の髪をかきあげる左手の、見覚えのある位置に赤いかさぶたができているのが見えた。
「な…何だよ。てめえは一体。」
 アンジェリークに左手をいきなり捕られたゼフェルが驚きの声を上げる。
「やっぱり………。あの時の………。ゼフェル様だったんですね。」
 かさぶたのついた左手を見つめていたアンジェリークがゼフェルを見上げて笑顔を作る。
 プイっと横を向くゼフェルの左手を、頬にあてたアンジェリークはそのまま言葉を続けた。
「ゼフェル様。私、あなたの事知ってました。ずっと昔から…。先日も、小さい頃も、繰り返し夢に見て……。ずっと前から私はゼフェル様の事を知ってるんです。多分……生まれる前から……………。」
 女王試験前日の小さな出来事であった。


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