| 第14章 ロゴスの啓示者 | 
    
    
       「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1・1) | 
    
    
       「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、 
       すなわち、いのちの言(ロゴス)について−−− 
       このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、 
       かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。 
       この永遠のいのちは、父と共にいましたが、 
       今やわたしたちに現れたものである。」(ヨハネの手紙一1・1〜2) | 
    
    
       「その名は『神の言(ロゴス)』と呼ばれた。」(黙示録19・13) | 
    
    
       聖イエス会は、 
       わたしが1938年1月9日、復活の生けるキリストとの出会いにおいて、 
       『言(ロゴス)は神なり』との御名によって 
       聖霊の印を心の核心にしるされることによって、 
       「御子を内に啓示され」(ガラテヤの信徒への手紙1・16)、 
       神ご自身の現存を自分自身のうちに体験せしことに端(たん)を発せしリバイバルに起因しているのである。 | 
    
    
       その結果、 
       「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、 
       耳しいは聞こえ、死人は生きかえり」(マタイ11・5) 
       というしるしと奇跡が次々に起こり、 
       全満州に一大センセ−ションを巻き起こす、すばらしいリバイバルが起こったのである。 
       それは、まさしく続・使徒行伝であり、内住されしキリストご自身のなされし奇跡にほかならない。 | 
    
    
       聖イエス会の全メンバ−は例外なく、 
       生けるキリストとの出会いにおいて、 
       御名によって(聖霊の印)、永遠の命であられるキリストご自身を宿しているのである。 
       それゆえ、ひとりの例外もなく、 
       キリストのあかし人であり、キリストの携帯者であり、言(ロゴス)の啓示者であらねばならないのである。 | 
    
    
       「さあ、行きなさい。 
       あなたは、 
       異邦人たち、・・・・・・・またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」(使徒言行録9・15参照) | 
    
    
       全世界に、キリスト教を伝える人はまことに多くある。 
       しかし、キリストご自身を伝える人、 
       御名の啓示者、ロゴスの携帯者は、必ずしも多くはないのである。 
       まして、イスラエル人の前に御名を啓示し得る者は、まことに悲しくも、まれである。 | 
    
    
       それゆえにこそ、 
       神は、この切迫せる終末時代に、 
       日の出る方からの使者に生ける神の印を与え、 
       イスラエルの全部族のうちの14万4千人のものに聖霊を伝達する使徒として、 
       聖霊の印を押すようにと、 
       この聖イエス会、この小さき群れを選び給うたのである(ヨハネの黙示録7・2〜4)。 | 
    
    
       福音記者ヨハネは、だれよりも深くイエスを知り、 
       イエスのメシヤ性と神性を知った。 
       そのヨハネの認識した、最も深い神認識は、 
       「言(ロゴス)は神なり」(ヨハネ1・1)との認識であった。 
       この「ロゴスは神なり」との認識は、まことに革命的体験であり、神学でもある。 | 
    
    
       神ご実体そのものであるロゴス、 
       そのロゴスが、人間の人格の最深部、核心に内住すること、 
       換言すれば、ロゴスの受胎(じゅたい)によってこそ、 
       人は真に神の性質に参与するのであり、 
       その神的生命そのものに生きることによって、 
       まことに聖化され、キリストご自身に変容し、神化され、 
       ついに、ある意味において神となるのである。 
       この奥義はきわめて深遠(しんえん)であり、偉大でもある。 
       それは、「この言(ロゴス)に命(ゾ−エ−)がある」(ヨハネ1・4)からにほかならない。 |