〜霊的遺書〜



「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1・1)
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、
すなわち、いのちの言(ロゴス)について−−−
このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、
かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。
この永遠のいのちは、父と共にいましたが、
今やわたしたちに現れたものである。」(ヨハネの手紙一1・1〜2)
「その名は『神の言(ロゴス)』と呼ばれた。」(黙示録19・13)
聖イエス会は、
わたしが1938年1月9日、復活の生けるキリストとの出会いにおいて、
『言(ロゴス)は神なり』との御名によって
聖霊の印を心の核心にしるされることによって、
「御子を内に啓示され」(ガラテヤの信徒への手紙1・16)、
神ご自身の現存を自分自身のうちに体験せしことに端(たん)を発せしリバイバルに起因しているのである。
その結果、
「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、
耳しいは聞こえ、死人は生きかえり」(マタイ11・5)
という
しるしと奇跡が次々に起こり、
全満州に一大センセ−ションを巻き起こす、すばらしいリバイバルが起こったのである。
それは、まさしく続・使徒行伝であり、内住されしキリストご自身のなされし奇跡にほかならない。
聖イエス会の全メンバ−は例外なく、
生けるキリストとの出会いにおいて、
御名によって(聖霊の印)、永遠の命であられるキリストご自身を宿しているのである。
それゆえ、ひとりの例外もなく、
キリストのあかし人であり、キリストの携帯者であり、言(ロゴス)の啓示者であらねばならないのである。
「さあ、行きなさい。
あなたは、
異邦人たち、・・・・・・・またイスラエルの子らにも、
わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。」(使徒言行録9・15参照)
全世界に、キリスト教を伝える人はまことに多くある。
しかし、キリストご自身を伝える人、
御名の啓示者、ロゴスの携帯者は、必ずしも多くはないのである。
まして、イスラエル人の前に御名を啓示し得る者は、まことに悲しくも、まれである。
それゆえにこそ、
神は、この切迫せる終末時代に、
日の出る方からの使者に生ける神の印を与え、
イスラエルの全部族のうちの14万4千人のものに聖霊を伝達する使徒として、
聖霊の印を押すようにと、
この聖イエス会、この小さき群れを選び給うたのである(ヨハネの黙示録7・2〜4)。
福音記者ヨハネは、だれよりも深くイエスを知り、
イエスのメシヤ性と神性を知った。
そのヨハネの認識した、最も深い神認識は、
「言(ロゴス)は神なり」(ヨハネ1・1)との認識であった。
この「ロゴスは神なり」との認識は、まことに革命的体験であり、神学でもある。
神ご実体そのものであるロゴス、
そのロゴスが、人間の人格の最深部、核心に内住すること、
換言すれば、ロゴスの受胎(じゅたい)によってこそ、
人は真に神の性質に参与するのであり、
その神的生命そのものに生きることによって、
まことに聖化され、キリストご自身に変容し、神化され、
ついに、ある意味において神となるのである。
この奥義はきわめて深遠(しんえん)であり、偉大でもある。
それは、「この言(ロゴス)に命(ゾ−エ−)がある」(ヨハネ1・4)からにほかならない。