「わが花嫁は閉じた園、
閉じた園、封じた泉のようだ。」(雅歌4・12)
聖母マリヤとベタニヤのマリヤは、
観想的生活のシンボルとして、称賛されてきた代表的存在である。
神と共なる霊的生活、
キリストとの完全な一致の天的生活、
神のためにのみ生きる生活、
キリストのためにすべてを献げ尽くすことを目的とする愛にみちた生活。
もはや彼女らの心の中には、何ものも入る余地はない。
まさに閉じた園、封じた泉である。
彼女の心の園は、彼女の最愛のキリストのみに開放されており、他者は立入厳禁である。
彼女の心の泉には、ただ聖霊のみが充満しており、まことに聖にして純潔そのものである。
この聖なる泉は、汚れしものの流入を警戒し、固く固く封印されているのである。
霊的生活の目指すところは、
神の現存を楽しむこと、
聖霊に充満されること、
しかして自己をキリストに変容することにある。
ダムにおいて固く鉄のドアが閉ざされているのは、
流入する水をむなしく流れ過ごさせることなく、満々と水をたたえるために他ならない。
使徒はもうひとりのキリスト、生ける水なる聖霊に充満されし霊的ダムであらねばならない。
この霊的レベルに達することなくして、いかにして他者に聖霊を注ぐことができるであろうか。
観想生活は無味乾燥ではない。霊的乾燥を聖霊の充満によって回復するためのものである。
ダムにおける貯水作業である。
「あなたは園の泉、生ける水の井、
またレバノンから流れ出る川である。」(雅歌4・15)
ついに、待ちに待った、神の川に水が満ちたのである(詩篇65・9)。神のダムは放水された。
その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。(イザヤ35・5~6)
これぞ聖霊によるリバイバルである。
生ける水なる聖霊の流出、洪水がおこる時、
ふしぎとしるし、癒(いや)される者、聖霊を受ける者が続出するのである。
観想生活---
キリストの現存の発見---
キリストとの一致---
聖霊の充満---
聖霊の流出、洪水---
大リバイバル。
このコ-スを通ってこそ、待望の大リバイバルに到達するのである。
このコ-ス
---聖なる道を拒否し歩まないものは、
生涯リバイバルを体験することはないであろう。
わが道をゆくのではなく、神の道、この聖なる道をゆくものは幸いである。
この道は聖なる道ととなえられる。
ただ、聖なる者のみそこを歩む。
観想生活あっての外的活動あれ!