~聖なる道~



第19日 全き者であれ
「主はアブラムに現れて言われた、
『わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。』」(創世記17・1)
主(アドナイ)は
「我は全能の神なり(アニ-・エル・シャダイ)」との御名(ハシェ-ム)をもって、
ご自身を啓示された。
単に御名を啓示されたのみではなく、
この御名の啓示によって、アブラハムを新創造し、アブラハムとされたのである。
この瞬間より、全能の神ご自身が、アブラハムのうちに宿り、
かつ、歩み給うようになったのである。
この瞬間より、全能の神ご自身が、
アブラハムのうちに宿り、かつ、歩み給うようになったのである。
全能は神性の特性であり、
神は希望されるままに、
希望される時に、
ご自身の意志のままに、
ただのひとことばをもって、無から全宇宙を、全被造物を創造されたのである。
「神にとっては何事も決して不可能ではありません
<神から出ることばで、実現の力のないものは一つもありません>。」(ルカ1・37、詳約)
「するとマリヤが言った、
『ごらんください、私は主のはしためでございます。
あなたのお言葉のとおり、この身
になりますように(fiat)。』(ルカ1・38)
マリヤが全能の主に対して「フィアット」と答えた瞬間、
ロゴスは人性をとられ、
「見よ、おとめがみごもって(処女性の純潔を失うことなくして)男の子を産む。
その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7・14)
とのメシヤ受胎・出現の、
イザヤを通して予告されし神のことば、
待ち望まれた預言は、実現成就されたのである。
「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」とのみことばは、深い意味をもっている。
「全能者であるわたしが、いつもあなたのうちにいる。
それゆえ、あなたはいついかなるときも、全能の神の現存の意識のうちに生きよ。
決して不信仰であってはならない。
信仰において全き者であれ。
全能者であるわたしに対して、ただ単純率直に、『フィアット』をもって答えよ」との意味である。
全能者を所有する者の義務責任は、
マリヤのように「フィアット」をもってこたえることである。
自己の無を全能者のうちに深く沈め、
神の全能のみを仰ぎ見、
この神をすべてのすべてとし、
心の奥底より、神には絶対に不可能はない、
と確信に満たされて、「フィアット」と答えることである。
マリヤが、この「フィアット」によって、
インマヌエル預言をみごとに実現成就したように、
わたしたちもこの信仰の完全性において、
アニ-・エル・シャダイと宣言される、
うちにいます全能の主に対し、
「フィアット」をもって応答することによって、
わたしたちの時代に成就すべき、すべての預言を実現成就することが可能なのである。
預言者エゼキエルは、
「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」
と主より問われしとき、「フィアット」をもって答えたのである。
神と一致し、神の信仰に浸透され、わたしたちも「フィアット」と応答しよう。