~聖なる道~



第31日 主の栄光を鏡に映す
「主は霊である。
そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである。」(コリントの信徒への手紙3・17~18)

キリストへの変容、人間の神化。
キリストのあがないの究極目的は、
人間を神化することによって、ご自身のレベルにまで高揚することである。
したがって、自己のキリスト化こそは、霊的生活の本質的究極目標であらねばならない。
「アルスの聖司祭ヴィアンネ-師の声は、あまりにも低かったので、
説教のとき、彼の周囲におし寄せる群衆にはよく聞き取れなかった。
しかし、人々にはヴィアンネー師の言うことは全然聞えなくても、師の姿は見えた。
神の霊に充満された神々(こうごう)しい姿はどこからも見えた。
この師の姿を一目見ただけで、聴衆は感動し、そして回心したのである。
アルスの巡礼から帰って来た一人の弁護士に向って、
ある人が、『アルスでどんな印象を受けましたか』と、たずねてみた。
『そうです、私は人間のなかに、神を見ました。』
これが弁護士の答えであった。」(使徒職の秘訣より)
ここを読むたびに感動の涙が溢(あふ)れ流れる。
それと同時に、挑戦を受けもするのである。
これぞ恩寵の傑作、
まさに聖人のあるべき姿、神に用いられし使徒の姿なのである。
師は、水晶のように輝いているいのちの水なる聖霊に、
あまりもくまなく浸透され、
聖化されていたので、
透明度の高い宝石のように、うちに現存されているキリストを、
みごとに反映させていたのである。
口でキリストをあかしすることは容易であるが、
存在そのものをもってキリストをみごとに反映することは、
聖人の域に高められて初めて可能なことなのである。
霊的透明人間のみが、神を見せることを容易にする。
モ-セがシナイ山上において、
四十日のあいだ、神と顔を合わせて交わり、
下山したとき、
イスラエルの人々は、彼の顔が光を放ち、あまりにも神のみ顔を反映させていたので、
恐れをなして彼に近づくことができなかった(出エジプト記34・29~30)。
秘訣がここにある。
「主の栄光を鏡に映す。」
主の栄光が人間において輝く度合いは、
聖化された度合い、
神のみ顔を見た度合い、
神を認識した度合いによるのである。
使徒職による輝かしい成果は、
外的活動についやした時間の長さによるのではなく、
観想生活による、神との交わりの時間の長さにかかっている。
神の顔を受けとり、
神ご自身の御顔の光をもって臨む、ただ一回の集会は、
神の現存を反映し得ない百回の集会よりも、はるかに効果がある。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。
彼らはその良いほうを選んだのだ。
そしてそれは、彼らから取り去ってはならないものである。」(ルカ10・42)