〜聞け イスラエルよ!〜



聖書に啓示されたメシヤのイメージ
イスラエル民族の歴史は、
ある意味においてメシヤ待望の歴史であったと言い得るであろう。
メシヤこそは、イスラエル民族の抱く最も本質的な願望を、
超越的に満たすものとして期待されてきたのである。
このメシヤニズムは、その根源を聖書から抱きとっているのである。
「わたしは彼らの同胞(イスラエル)のうちから、
おまえ(モーセ)のような預言者を彼らのために起こして、
わたしの言葉をその口に授けよう。
彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。
彼はわたしの名によって、わたしの言葉を語る。」(申命記18・18)
ここにメシヤのイメージが存在するのである。
ユダヤ的メシヤニズムにおける、メシヤの第一イメージは、
モーセ的人物にほかならないのである。
ここにおいて注目すべきは、モーセ的とはいかなる意味においてかということである。
民数記12章7節に、「わたしのしもべモーセ・・・・・は、わたしの全家に忠信なる者である。
彼とは、わたしは口ずから語り、・・・・・彼はまた主の形を見るのである」と、
主ご自身がモーセと他の預言者とを比較し、モーセの優越性を示されたのであった。
この点においてこそ、メシヤの、メシヤ性の優越性が存在するという点である。
モーセはまず神のことばの伝達者であったが、
メシヤにおいては、よりそれが完全であり、
終末時代、すなわちメシヤ時代においては、
神はメシヤによってすべてを語られるのであり、
したがってメシヤは神の語り給うままを語るのである。
それゆえ、
メシヤは神のことばであり、
それによって神は人類に自己を啓示されるのである。
「彼はまた主の形を見るのである」とのみことばは深い神秘を蔵している。
モーセはある意味において神を見た人物であるが、
メシヤは完全に神を見るのであり、それによって神を完全に映す鏡となるのである。
モーセは神の栄光を反映した人物であったが、
メシヤは神の栄光の表現そのものであり、
わたしを見た者は、神を見たのである」と言い得る、ただひとりの存在なのである。
したがって、人類はメシヤとの出会いにおいて、現実的に生ける神と出会うのである。
メシヤこそは、見えない神の見える形なのである。
ここにこそ、メシヤの超越性と、輝かしい栄光が存在するのである。
神はシナイ山において、モーセを仲介者として、
イスラエル民族に律法(トーラー)を授け給うた。
しかし、メシヤにおいては、新しい永遠の契約を成就せしめ、
人類に永遠のいのちそのものを伝達されるのである。
換言すれば、「律法はモーセを通して与えられたが、
恵みと真理と命とは、メシヤを通して与えられるのである。(ヨハネによる福音書1・17参照)
モーセが伝達したものは律法(儀文)であったが、
メシヤがもたらすものは、人間の心の中に、御霊によって印される生きた律法(トーラー)である(申命記30・14)。
その結果、人間は内在の神の霊により、律法を実現・成就するものとされるのである。
メシヤは律法を廃棄するのではなく、実にそれをみごとに成就するのである。
モーセを通して行われた偉大な歴史的業績、
エジプトに捕囚となっていたイスラエル民族を、
エジプトより解放したあのすばらしい救いのわざにおいては、
政治的なメシヤのイメージが表現されている。
ややもすれば宗教的、霊的、道義的メシヤ・イメージよりも、
政治的英雄的メシヤに対するイメージが、
イスラエルにおいてはより強烈な印象を与えがちであるのは、
永い世紀にわたって国を失い、
さすらいと迫害を常に身をもって体験したイスラエル民族にとり当然の結果であった。
しかし、ここに留意すべき点がある。
モーセはイスラエル民族をエジプトより解放したのであったが、
主の民を約束の地に、神の安息に導き入れたのはヨシュアであったという点である。
メシヤは、モーセ的であると同時にヨシュア的でもあるのである。
霊的(宗教的)であると同時に政治的でもある。
メシヤは、モーセがイスラエル民族をエジプトより解放せしごとく、
全人類を罪の奴隷の状態より全く解放し、永遠の命を賦与するものである。
モーセの生涯は、イスラエル民族の救いのために献げ尽くされた生涯であった。
同胞がまさに滅亡の危機に直面したそのとき、
彼は破れ口で主のみ前に立ち、
とりなし祈り、同胞を救い出したのであった(詩篇106・23)。
メシヤもまた、全人類の救いのために、
自分自身を献げ尽くし、仲保者となり、
「彼らをゆるしたまえ」と祈る存在なのである。
聖書に啓示された第二のメシヤ・イメージがここにある。
「主なる神は、こう言われる、
見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、
四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、
ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず・・・・・・・・
わがしもべ
ダビデ(メシヤ)は彼らの王となる。
彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。
彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。
彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。
これはあなたがたの先祖の住んだ所である。
そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、
わがしもべ
ダビデが、永遠に彼らの君となる。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。
わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。
わがすみかは彼らと共にあり、
わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。」(エゼキエル書37・21〜27)
メシヤはダビデ的人物であり、
ダビデは貧しい羊飼いであったが、主(アドナイ)より油を注がれ、
ユダとイスラエルを統一し、王国をみごとに建設し、
イスラエルの歴史の中で最も輝かしい黄金時代を築きあげ、
その名声は海外にまで及ぶに至ったのであった。

このダビデにおいて象徴されしごとく、メシヤはこの混乱している終末時代に、
全世界に真の恒久的平和をもたらし、愛と公平と正義をもって支配し、
地上に神の国を建設するのである。
その時、「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザヤ書11・9)
との預言はみごとに成就するのである。
メシヤの日において、人類は初めて聖書の真の意味を理解し、
預言の成就によってすべてを正しく認識するに至るであろう。
ダビデは貧しさの中に生まれ、よき羊飼いとなり、多くの受難を経験し、
しかる後栄光に輝く大王となり、人々より崇敬を受けたのであった。
聖書はこのダビデの姿の中に、メシヤのイメージを啓示しているのである。
ソロモンもまた、メシヤの象徴的人物なのである。
彼はダビデの最愛の子であり、彼の後継者となったのであった。
彼は知恵に満たされた人物であり、平和の人であった。
ソロモンの統治時代においては、イスラエルは戦争の経験をもたなかったのであった。
メシヤはダビデの子であり、ダビデの後継者であり、
神の知恵に充満され、平和の人であり、「その名は・・・・・『
平和の君』ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる」(イザヤ書9・7)とある通りである。
メシヤの最も政治的な面は、この地上世界に、
真の平和、永遠の平和、神の国を実現することにある。
彼は平和の君であるがゆえに、永遠の平和を確立することが可能なのである。
しかもメシヤは、人類が最も深刻な破局に直面したとき、しかり、この終末時代において、人類を破滅の危機より救済し、真の恒久平和をもたらすメシヤなのである。
人類はまさに終末的破局に直面しており、
メシヤはこの時代にこそ、人類をこの危機より救済するために、
栄光的出現をもって顕現するであろうことを、わたしは信じて疑わないものである。
最後に、ソロモンにおいてメシヤのイメージを鮮やかに見るのは、
彼がイェルシャライムに、主のために比類なく美しい壮大な神殿を建設、完成したことにおいてである。
神殿の完成こそはメシヤの最もメシヤ的事業にほかならないからである。
ソロモン王によって建設された神殿は、
メシヤによって建設される神の栄光に輝く新しい真の神殿の象徴である。
神殿こそは、神と人間との出会いの聖なる場所である。
しかし、生来罪を背負っている人間は、
神と出会う前に、罪のあがないのために犠牲の小羊を必要とし、
小羊の血によって罪ゆるされ、神と和解する必要があったのである。
それゆえ、大祭司は年に一度、自分自身と民の罪のために犠牲の血をたずさえ、
至聖所に入り、あがないをなしたのである。
新契約におけるメシヤは自ら大祭司となり、
神の小羊の聖なる血をたずさえて至聖所に入り、
ただ一度限りでわたしたちを聖別し、
永遠に欠けるところなく聖化し、完全なものとされるのである。
それはメシヤ自身が全き方であり、
献げられし血もアベルの血にまさって比類なく完全なものであるからにほかならない。
主はかく言われる、
「イスラエルの子らは多くの日の間、王なく、君なく、犠牲なく・・・・・・過ごす。
そしてその後(終末時代)イスラエルの子らは帰って来て、
その神、主(アドナイ)と、その王ダビデ(栄光のメシヤ)とをたずね求め、
終りの日におののいて、主とその恵みに向かって来る。」(ホセア3・4〜5)
「聖霊が言っているように、『きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら・・・・・・
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。』」(ヘブライ人への手紙3・7〜8)
きょうこそ大胆に、信仰をもってその神、アドナイと、ダビデの子であるメシヤとをたずね求めよう。
おののきつつ、アドナイとメシヤに向かって進んでゆこう。神とメシヤとの出会いを求めて。