~聖なる道~



第25日 神の充満
「またあなたがたが<自分の全存在において>満たされて、
神の充満に達する
<すなわち最大限の豊かな神のご臨在をいただき、
神ご自身によって全く満たされ、
あふれているからだとなる>ためです。」(エフェソの信徒への手紙3・19、詳訳)
注目すべきは『充満(プレロ-マ)』(pleroma)ということばである。
この充満ということばは、エペソ書1章23節にも用いられている。
キリストのからだそのものである教会は、
神のいのちの充満を受けた、
霊的健康体であらねばならないのであり、
繊(せんさい)細で痩(やせ)型、ス-トであってはならないのである。
キリストのからだである教会こそは、
頭なるキリストを現在において啓示するものであり、
もうひとりのキリストであらねばならない存在であるからである。
もうひとりのキリスト、他のキリストであるためには、
どうしても神の充満を受けておらねばならないことは、原理的に当然のことなのである。
したがって、終末をすべくくるリバイバリストとなるためには、
繊細スマ-トであっては役に立たない。
試みに使徒行伝に登場する使徒達は、
一人の例外もなく、
「一同は聖霊に満たされ」ていたのである(使徒言行録2・4、4・31)
聖霊の充満、キリストの充満、神の充満こそは、
使徒行伝におけるリバイバルの神的エネルギ-源であった。
「というのは、彼(キリスト)のうちにこそ
神性の全充満が肉体の形をもっていつまでも宿られる
<神性の完全な表現がなされている>からです。
そしてあなたがたは彼のうちにあり、
満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです。
<キリストにあってあなたがたもまた、
神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、
霊的に完全な身たけに達するのです>」(コロサイの信徒への手紙2・9~10、詳訳)
とある通りである。
教会はまさしく父・子・聖霊、すなわち三位(さんみ)一体の充満にほかならない。
頭であるキリストは、ご自身のうちに充満する神性を、神的生命を、
そのからだである教会に、豊かに注ぎ込み、
それによって教会を神の充満(プレロ-マ)とするのである。
キリストが、からだである教会を聖霊の充満とするのは、
ご自身の充満を、教会を通して、人類に伝達せしめるためである。
自分自身が神の充満の体験を持たないなら、
いかにして他者に溢(あふ)れ注ぐことが可能であろうか。
使徒行伝における使徒達が、
エルサレムからロ-マまで、
きわめて短い期間をもって、
福音によって征服し得たのは、
ひとりびとりの使徒が神の充満を持っていたからである。
この終末時代をすべくくるリバイバルを起こすためには、
どうしてもわたしたちが、
この神的エネルギ-、
神の充満を持たねばならないのである。
「あなたがたもまた、父・子・聖霊に満たされ、神の充満に達するのです。」