〜聞け イスラエルよ!〜



三十六人の隠れた義人
本日もこのように、イスラエルの方々と共に、主(アドナイ)を礼拝し得ることは、わたしたちの喜びとするところである。
さて,わたしのメッセージのテーマは、「三十六人の隠れた義人」である。
シャローム・ハウスを訪問される多くのイスラエルの方々の中に、
「わたしたちの過去の歴史は、苦難と迫害との悲惨に満ちたものであった。
世界のどこに行っても、わたしたちは歓迎された経験を持たない。
京都のシャローム・ハウスにおいて、
かくのごとき歓迎を受けたことは、ユダヤ史に一ページを綴るに値する、
実に感動すべき特筆大書すべきことである。
ユダヤの伝統的な伝説の中に、三十六人の隠れた義人というのがあり、
それによれば、イスラエルは、
三十六人の義人の愛と支持、
祈りなくしては決して存在することはできない、といわれている。
あなたこそ、必ずその隠れた義人の一人に違いないと確信する」と言われる方があった。はじめの間は儀礼的あいさつと考え、別に関心を持たなかったのであるが、
あまりにも多くの方々から聞くに及び、無関心であり得なくなったのであった。
ちょうどそんな時に、イスラエル大使館の参事官、MICHAEL SHILOH氏夫妻を迎えた。
ミハエル・シロ氏は、「シャローム」の挨拶の後、二冊の書籍をわたしに下さったのであった。
それは、ゲルショム・ショーレムの「ユダヤ主義と西欧」「ユダヤ主義の本質」であった。
わたしが紹介するまでもなく、著者はドイツ生まれのユダヤ人であり、
ヘブライ大学教授であり、
ユダヤ神秘主義カバラー研究の第一人者として、世界的に知られた著名な哲学者である。
わたしは、ショーレムの弟子のひとりである、
ハイファ大学教授マティ・メゲッド博士との数日間の交わりを通し、
ショーレムについて、カバラーについて多くのことを教えられたのであった。
「ユダヤ主義の本質」の中で、
はからずも、
「ユダヤの伝統の中の三十六人の隠れた義人」に関する記事を見いだしたのである。
それによると、この伝説の歴史的起源は、
創世記十八章十八節以下の、言葉の数値の神秘主義的解釈によるとしるされている。
主はアブラハムに、世界は彼のごとき三十人の義人なしには決して存在し得ないと啓示されたのであると。
罪悪の充満していたソドムとゴモラの街は、
三十人、否十人の義人すら持たなかったために、
ついに滅亡したのであると言う解釈である。
四世紀にいたり、タルムード学者アバイは、
「世界は、神の顔を日ごとに受け取った三十六人の義人なしであったことは決してない」と。それ以来、三十六人の義人が定説化されたのであるとの記事を、
わたしはきわめて興味深く読んだのであった。
まことに、シロ氏が来るに及んで(創世記49・10参照、シロの来るときまで・・・・・この「シロ」はメシヤを意味している)、
三十六義人の伝説の起源を理解し得たのであった。
しかし、義人については説明されていない。
ここで留意すべきは、アブラハムが主ご自身より啓示を受けたのは、
彼が神と出会い神にあって義人とされし直後のことであった、という点である。
ここに言う義人とは、自称義人、または世に言う義人ではなく、
神ご自身によって義とされた義人のことである。
「神の顔を毎日受け取った人」との表現は神秘的であり、意味深長である。
モーセは、神の顔を受け取った代表的人物である(申命記34・10)。
出エジプト記三章に、彼がいかにして神との出会いを体験したかが、実にリアルにしるされている。
「我は有りて有るものなり。」「わたしは必ずあなたと共にいる。」
神の御名を啓示された人、
神と共にある人、聖書が啓示する神の人、
義人とはかくのごとき人なのである。
信仰の奥義、新契約の核心、
それは単に神を信ずるのみではなく、
神との出会いを経験し、
心の最奥に神の御名を印され、
神の現存を鮮やかに体験し、神と共にあることにこそあるのである。
モーセの存在が、イスラエル民族にとってどれ程祝福であったことであろう。
詩篇第106編23節に、「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。
しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、
み怒りを引きかえして、滅びを免(まぬか)れさせた」とある通りである。
聖書には、義人の存在によって破局から幾度も救い出された歴史が満ち満ちているのである。
いまや世界は、まさに深刻な破局に直面している。
平和をもたらし維持すべき機関である国連は、大国のエゴイズムによって動きがとれず、戦争と革命はやむことなく、世界のどこかに起こっているのが現状である。
アフリカやインドなどでは、餓死によって幾万の人々が餓死寸前であり、ドルの急下落によって、世界的な経済破局が起こり、唯物的な思想によって、
不信仰時代が到来し、
道徳的面より言えば、ノアの洪水、ソドムとゴモラの時代よりも頽(たい)廃的となっているのである。
さらに最大の破局的危機は、生きとし生けるものを一瞬のうちに死滅せしめる核兵器が、大量に存在していることである。それに加え、はなはだしい公害が、破局にいっそう拍車をかけいるのが現状である。
かくのごとく悲しむべき現状を目(ま)の当たり見るとき、
聖書が預言している終末、破局の時が刻一刻切迫していると警告せずにはいられないのである。
世界は、かかる意味において、
今日程隠れた義人、神の人を必要とする時代はないであろうと思われる。
まさに今日ほど、義人のあつき祈りを必要とする時代はないのである。
この破れ口で、
主のみ前に立ち、
世界人類の救い、
世界の平和、
イェルシャライムの平和、
平和の君であられるメシヤの来臨を祈る、
隠れたる義人、神の人を必要とするのである。
今はまさに破局の、艱難時代の直前であり、人類が未だかって経験したことのない大艱難に直面しているのである。
しかし、信仰による義人は、この暗黒の中にあって、
すでに来たらんとする黎明を予感し、希望の星、ダビデの星を見いだしているのである。
それは単なる憧れとしてではなく、
不動の信仰のうちに、
生き生きとした希望に燃えつつ、
ダビデの子である平和の君の御来臨を、
祈りのうちに今か今かと期待しつつ、待ち望んでいるのである。