〜言泉集〜



風  鈴
「しかし、以上の事がしるされたのは、
あなたがたに
イエスキリスト(メシヤ性)、
神のみ子
(神性)であると信じさせるためであり、
また彼を信ずることによって、
あなたがたが、彼の
み名によって〔彼の本質そのものによって〕いのちを得るためである。」(ヨハネ20・31、詳訳)
イエスのメシヤ性と神性に対する厚い信仰、深い把握、
御名に対する信仰に徹し切ることのうちに、信仰の奥義があることを示している。
イエスのメシヤ性に対する信仰と、イエスの神性に対する信仰は、
あたかも鳥の両翼のごときものであり、
その一つを欠けば飛ぶことが不可能であるごとく、神にいたることは不可能である。
歴史上の人物であるイエスを、
聖書に啓示されていた約束のメシヤと信じ、
さらに、メシヤであるキリストこそ、
「真実な神であり、永遠のいのちである」(ヨハネの手紙一5・20)と信ずることによって、
永遠の生命に参与するのである。
ヨハネ福音書第20章31節の言葉は、イエス・キリストの神秘を解明する鍵である。
このメッセ−ジは、どれほど強調しても、過ぎるということはない。
世には、イエスはキリストであると信ずる人は多くあるが、
イエス・キリストを真実な神、永遠の生命そのものとして受け入れている人は、必ずしも多くはないからである。
「わたしの言葉もわたしの宣教も、
巧みな知恵の言葉によらないで、
霊と力との証明によったのである。
それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、
神の力によるものとなるためであった。」(コリントの信徒への手紙一2・4〜5)
使徒パウロのことばに、すべての伝道者は耳を傾ける必要がある。
使徒パウロは、哲学の都アテネでの宣教において、
ギリシャ人の気風に適応した方法、
すなわち、巧みな知恵の言葉を用いて、失敗に終わったのであった。
救いは哲学でも雄弁でもなく、福音、
すなわち十字架につけられたキリストご自身にほかならない。
パウロは、アテネ伝道の痛い失敗の経験から、宣教の方法を切り替えたのである。
つまり、福音オンリ−に徹したのである。
もし、伝道者が、人間的な方法、巧みな話術、人間的常識、哲学や神学にのみ依存するなら、
それを受けとる側の信仰は、全く人間的、常識的、単なる知的認識に過ぎないものとなる。
もし宣教が、神のことばの伝達、十字架につけられたキリスト、
復活の生けるキリストご自身を啓示し、
聖霊の臨在、しるしと奇跡にとって証明されるなら、
それを受け入れる信仰は、超自然的なもの、天的なもの、神よりのものとなるのである。
ここに、使徒時代の宣教の特色が鮮明にあらわれている。
使徒時代の宣教は、超霊能(カリスマ)的であったことである。
今日の教会は、まことに上よりの能力を失っている。
それは、伝道者がカリスマ的でないことのあらわれである。
教会は使徒行伝のごとくあらねばならない。
そのためには、まずなによりも、伝道者が聖霊と信仰に満たされ(使徒言行録6・3、5,8)、
カリスマ的存在とされる必要がある。
「使徒職の秘訣」「キリストの奥義を生きる」「使徒職の炎」「雅歌について」などのすばらしい霊的書物を次々と翻訳されている、トラピスト修道者・山下房三郎神父より、最近手紙が寄せられた。
「『基督(キリスト)者はキリストのごとく』、『教会は使徒行伝のごとく』との、
聖イエス会の標語は、まことにすばらしい限りです。
『基督(キリスト)者はキリストのごとく』、
すなわちキリスト者は、もうひとりのキリストである、とは、
カトリック教会においても、いつも言われてきたことですが、
『教会は使徒行伝のごとく』は、ごく最近、それもバチカン公会議後、
行き詰まった現状を打開するために、遅蒔(おそまき)ながら叫ばれている次第です。
御教団がこのすばらしい標語を目指して前進しておられるところに、
今日の発展があると存じます」と。
キリスト者が恩寵(おんちょう)の傑作となり、
もうひとりのキリストに変容するとき、
必然的に教会は使徒行伝の教会へと回帰(かいき)し、
リバイバルを現実的に見るであろう。
使徒行伝におけるすばらしいリバイバルは、
「神が彼らと共にいてして下さった」(使徒言行録14・27)
みわざにほかならないのである。
主ご自身のみ名を唱(とな)える聖イエス会の信仰は、
一般のキリスト教会の人々には理解されていないが、
イスラエルの人々や、
称名(しょうみょう)信仰者である仏教徒〔南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)をとなえる〕には、理解されやすい。
み名を唱える信仰は聖書的であり、
「わたしの名を唱えているすべての異邦人」(使徒言行録15・17)とあり、
「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ロ−マの信徒への手紙10・13)としるされている。
また、「わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、
キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ」(コリントの信徒への手紙一1・2)ともしるされているからである。
旧約においても、それは啓示されている。
「『わたしは、有って有る者。』(エヒエ−・アシェル・エヒエ−)・・・・・これは世々の
わたしの呼び名である。」(出エジプト記3・14〜15)
「そのみ名を呼べ。」(イザヤ書12・4)
「彼らはわたしの名が、主であることを知るようになる。」(エレミヤ書16・21)
主ご自身のみ名を呼ぶことによって、まことに神ご自身に出会うのである。
信仰者の父アブラハムも、「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは
主の名を呼んだ」(創世記13・4)のである。
ヨエルは、「
すべて主の名を呼ぶ者は救われる」(ヨエル書3・5)としるしている。
ロ−マ書10章13節は、ヨエル書よりの引用である。
み名を呼び求めることは、神との全人格的な出会いを体験せしめる、最も確実な信仰手段である。
キリスト信者であるならだれでも、自分が信じている神が全能の神であることを、一応知的に認識している。
「我は天地の造り主、能(あた)わざるところなき父の神を信ず」と、使徒信条を礼拝ごとに信仰告白として称えているのである。
しかし、アブラハムのごとく、現実的に、まことに神を全能の神として、
真実信じ、
その信仰に生きているであろうか。
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(ロ−マの信徒への手紙4・17〜18)
これこそ信仰と言うに値する、生きた信仰なのである。
「わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記17・1)
アブラハムは、99歳になり、ついに約束のイサクを信仰によって与えられたのである。
イサクを抱くためには、無から有を呼び出される神を信ずる信仰が必要であった。
「神は言われた、
『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、
わたしが示す山で彼を燔際(はんさい)としてささげなさい。』」(創世記22・2)
との命(めい)を受けた時、
彼はただちに従い、
イサクを燔際としてささげ得たのは、
「彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と確信したからにほかならない(ヘブライ人への手紙11・19)。
信仰生活の途上において、
試練を受けた時、人間的常識に走り問題解決に当たるか、
それとも、アブラハムのごとく、徹頭徹尾(てっとうてつび)、
全能の神を信じ、神に走り、神に祈り、神のみを信じ、
問題を解決しているか、深く反省してみる必要がある。
信仰が実際にテストされるとき、
それによって、信仰が人間的常識的信仰か、
それとも上よりの信仰、
神によって生かされている真正の信仰かが、鮮明にされるのである。
しかるに、「あるようで無いのが純金の信仰であり、
ないようで有るのが不信仰である」というのが一般的であるのは、悲しむべき現実である。

七重八重 花は咲けども山吹の
実のひとつだになきぞ悲しき
御使(みつかい)いガブリエルより、
メシヤの処女降誕の重大メッセ−ジを伝えられた時、
マリヤは言った、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」(ルカ1・38)
かくして言は肉体となられ、
「見よ、おとめがみごもって男の子を産む、
その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ書7・14)との、
イザヤによるインマヌエル預言は実現成就されたのである。
マリヤの信仰こそ、花も実もある信仰である。
アメリカの著名な大統領であったル−ズベルトに、ある人が質問して言った。
「大統領は敬虔(けいけん)なクリスチャンであられると伺(うかが)いましたが、
聖書に書かれている軌跡を、本当に信じておられるのですか」と。
すると大統領は、「私は聖書の奇跡を文字通り信じています。
アメリカにおいても、キリストの奇跡を見ることができるのです。
多くの無頼漢(ぶらいかん)がキリストを信じて義人に生まれ変わり、
醜業婦(しゅうぎょうふ)も聖徒によみがえっているのです。
このように、人間の霊魂をさえ新創造されるキリストが、
肉体の病(やまい)を癒(いや)すことは、理の当然ではありませんか。」
スタンレ−・ジョ−ンズ師が日本に来られ、宣教大会を持たれた時、
若い牧師達が、「先生はバルトやブルンナ−をどう思いになりますか」と質問すると、
師は言下(げんか)に、「カルヴァンにもバルトにも、ただ一瞥(いちべつ)を与えればよろしい。
ただ生けるキリストご自身のみを注目しなさい」と。しかり、ただキリストのみ。
同志社の創立者・新島先生が、かって、偉大な信仰の人ジョ−ジ・ミュラ−を訪問し、
「何故、現今のクリスチャンは、
はつらつたる命に満たされていないのでしょうか」と尋ねられしところ、
「それは、聖書を愛読することと、祈ることとが欠けているために、
本当の生きた信仰、
つまり、神に対する真実の信仰が欠けているからです」と言下に答えられたとのことである。
彼は、多忙極まる生活の中においても、
必ず三ヶ月に一回の割で旧新約聖書を通して味読し、
毎日数時間祈り続けるのが日課であった。
神とのかかる親交こそは、彼の能力の秘密であった。
もし説教に力がなく、使徒職に実がないなら、それは神の前に力がないからである。
世界を動かすことを真に欲するなら、まず神を信仰によって動かさねばならない。
「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、
・・・・・地のはてまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1・8)