〜言泉集〜



走 馬 燈
この一篇は、私の心のスクリ−ンに去来する、走馬燈(そうまとう)の一駒(ワンカット)シ−ンである。
完成された大聖堂の正面祭壇上にある大ステンド・グラスが、朝日の光を受け、各々がもつ色彩を、神秘的なまでにたえにも美しく輝かせている。
大使徒ペテロ、ヨハネ、パウロ、その他の聖人達も、
天にある教会(新しきエルサレムなる教会)のステンド・グラスとして、
各自が独特の光彩を放っているのである。
ヨハネの黙示録21章19節〜20節に、
12の宝石をもって象徴されているのがそれを表している。
すべての偉大な聖人達は、
聖化されし個性を通して、
内住のキリストご自身を、いとも鮮やかに反映しているのである。
「12の門は12の真珠であり、
門はそれぞれ一つの真珠で造られている。」(ヨハネの黙示録21・21)
真珠は、傷つけられ、苦しみのるつぼの中で形成されるものである。
キリストこそはまことの偉大な真珠であり、「高価な真珠」(マタイ13・46)である。
霊眼の開かれている人は、
それを見つけると、
喜びのあまり、
すべてを投げ出して、
高価な真珠であるキリストご自身を求める。
それは、「神の奥義なるキリストを知るに至るためである。
キリストのうちには、
知恵と知識との宝が、
いっさい隠されている」(コロサイの信徒への手紙2・2〜3)からである。
使徒パウロ自身、
「わたしの主キリスト・イエスを知識の
絶大な価値のゆえに、
いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、
わたしはすべてを失ったが、
それらのものを、ふん土のように思っている。
それは、わたしがキリストを得るためである」(フィリピの信徒への手紙3・8)
と言っている通りである。
絶大な価値なるキリストを獲得した人々は、
その無限の宝庫であるキリストに全く魅了され、
恍惚(こうこつ)となり、
天の愉悦(ゆえつ)にひたり、
キリストの愛に傷つけられ、
彼ら自身キリストにあやかり、真珠(偉大な聖人)とされるのである。
「その日、彼らの神、主は、彼らを救い、
その民を羊のように養われる。
彼らは
冠の玉のように、その地に輝く。
そのさいわい、その麗しさは、いかばかりであろう。」(ゼカリヤ9・16〜17)

としるされている通りである。
わたしたちもみな、聖人たちと同じ国籍の者であり、
神の家族、新しきエルサレムのメンバ−なのである。(エフェソの信徒への手紙2・19)
「あなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、
キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、
主にある聖なる宮に成長し、
そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、
霊なる神のすまい(神殿)となるのである。」(エフェソの信徒への手紙2・20〜22)
十字架の聖ヨハネは、
「キリストの宝血によってあがなわれた花嫁と、
花婿なるキリストとの間に、霊的婚姻が行われるとき、
両者は完全に所有し合うことにより、
相互に自己を渡し合い、
愛人への完全な変化をうけ、
参与によって(ある意味において)神となる」と語っている。
さすがに神秘主義の大家である。
「主につく者は、主と一つ霊になるのである。」(コリントの信徒への手紙一6・17)
「『ふたりの者は一体となる。』
この奥義は大きい。
それは、キリストと教会とをさしている。」(エフェソの信徒への手紙5・31〜32)
それはあたかも、二つの蝋(ろう)を溶かし、一つの型に入れるようなものである。
聖霊が授与されるということは、神ご自身の授与にほかならない。
神ご自身が人間に授与されるということは、
人間の進化ではなく、
人間の神化を目指してのことにほかならない。
「人間の神化」のテ−マ、
神学は、偉大な教父達が声を大にして叫んだところのものである。
しかるに、現代人は、進化論を重大テ−マとしている。
まことに退化論と言うべきであろう。
自己の内面をキリストに変容せしめること、自分自身をキリストのごとくならしめること、果たしてそれは可能でありうか。
「神は愛である。
愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
わたしたちもこの世にあって
彼のように生きている。」(ヨハネの手紙一4・16〜17)
黒い炭を火の中に投げ入れると、
みるみるうちに火は炭の中に浸透し、炭を火に変化せしめる。
この地上においても、
可能なかぎりキリストと一致するとき、
聖霊のくまなき浸透をうけ、
キリストに似たものとされるのである。
この霊的・神秘的一致によって、
使徒ヨハネ自身、最もキリストに似た聖人となったのである。
エペソの中心部、小高い丘の上に、六世紀に、ユスティニアヌス帝がヨハネ教会を建てたのであった。
それは破壊され、現在は見る影もないが、現存する遺跡はその片鱗(へんりん)を示している。
そこに、聖ヨハネの墓がある。
わたしは聖ヨハネの墓前に立ち、
キリストへの変容、神化のテ−マについて、深い瞑想(めいそう)にふけり、
時のたつのを知らなかった。
神秘主義者聖ヨハネの目指す頂点こそは、
ロゴスとの実体的一致であり、
この神秘的一致によるキリストへの変容であった。
そこにおいて、わたしは言いようのない霊的愉悦(ゆえつ)を、深くあじわったのであった。
八月十六日夜、古都京都を色どる伝統的風物詩の一つでもある大文字は、あまりにもよく知られている。
夕闇が迫り、一切の景色が闇の中に消滅すると、東山の大文字山(如意ヶ嶽)山頂に「大」の字がくっきりと美しく燃え出る。約20分ばかり燃え続ける。まことに一刻千金の値がある。
わたしはそれを見るごとに、
いつも使徒パウロのことばを思いだすのである。
「生きるにも死ぬにも、
わたしの身によってキリストがあがめられることである。
わたしにとっては、
生きることはキリストであり、
死ぬことは益である。」(フィリピの信徒への手紙1・20〜21)
東山連峰は全く見えず、ただ火炎の「大」の文字のみが鮮やかに見えているのである。
自分の姿が全く消滅し、
ただ内に宿り給うたロゴスなる主ご自身のみが、
見え崇(あが)められねばならない。
「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。
バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか。」(マタイ27・17)
タウレルは言う、
「己を捨てたところに神を見いだし、
自我をだしたところにキリストを見失う」と。
自我か、それともキリストか。
霊的生活によって、絶え間なく、きびしく糾明(きゅうめい)しているか。
悲しむべきは、多くの場合、
自愛心にかられ、
自我を赦(ゆる)し、
キリストを十字架につける愚をくり返すのである。
霊的生活とは十字架の道であり、
自我を徹底的に十字架にわたす、きびしい生活にほかならない。
「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、
すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
そして、あなたがたが完全に服従した時・・・・・」(コリントの信徒への手紙二10・5〜6)
人間の聖化、神化の道は、
人間的おもいをとりこにし、
全面的に、完全に、キリストに服従させることにおいてのみ可能なのである。
しかるに人間は、自尊心、自愛心のとりことなり、
自己流の型をつくり、
自己の型に自分を入れることによって、
聖化を実現せんとしている人が多いのである。
聖霊の型にはまり込み、
自我を抹殺(まっさつ)することにおいてのみ、
聖化、神化はみごとに成就されるのである。
インクをたっぷりふくませて、「神則愛也」と文字を書き、
直ちに吸取紙(すいとりがみ)を当てると、
吸取紙はインクを吸いとり、
自らの中に「神則愛也」の文字を写しとる。
信仰をもって、「神は愛なり」の神的御名を呼びつつ、
ついに愛なる神を自らのうちに宿すのである。
「神は愛なり」との神的御名のくまなき浸透を受け、
ついに愛に変化するのである。
「神は愛である。
愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
わたしたちもこの世にあって彼のように生きている。」(ヨハネの手紙一4・16〜17)
ガリラヤの一漁夫たりしヨハネが、
キリストのごとくなると言ったのは、狂気のさたであろうか。
否! 柔和謙遜(けんそん)の使徒が、
かく言ったのは、狂気、妄想(もうそう)、高ぶりからでは決してない。
神の全能性、
キリストの贖罪(しょくざい)の完全無欠性、
聖霊の聖化・神化の恩寵(おんちょう)の充全性をたたえんためにかく言ったのである。
「わたしたちすべての者は、
その満ち満ちているものの中から受けて、
めぐみにめぐみを加えられた。」(ヨハネ1・16)
キリストの恩寵(おんちょう)が無限無量なるゆえに、
われわれのキリスト化は、
単なる夢でもなく、また単なる理想論でもないのである。
われわれさえ聖寵(せいちょう)に協力するなら、
キリスト化は必ず実現され得るのである。
完徳(かんとく)に達したい、どうしても聖人になりたいとの、
熱烈な憧憬(どうけい)、願望を、毎瞬間、そして生涯持ち続けよ。
呼吸を停止すれば、肉体は死ぬ。
そのように、聖人になりたいとの憧憬を停止すれば、
必ず霊的死をもたらすこととなる。
それは霊的自殺行為と言っても、決して言い過ぎではない。
全き生活とは、
キリストご自身が、わたしにあって今を生き給う生活のことである。
またそれは、聖化されしわたしが、
「キリスト・イエスにあって神に生きる」(ロ−マの信徒への手紙6・11)生活でもある。
キリストがわたしにあって生き、
わたしがキリストにあって生きる生活のことである。