愛に死ぬ |
主よ、あなたの火のような、
蜜のような愛の力が、
わたしの心を
地上のあらゆるものから、
離脱させますように。
そして、あなたが、
わたしへの愛のために、死んでくださったように、
わたしも、
あなたへの愛のために
死ぬことができますように。(聖フランシスコ)
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・・・・・愛するかたよ、おとりください、私のいのちを残りなく。
私は心から望む、
あなたのために、
苦しみ、そして死ぬことを・・・・・・。
おお、イエスよ、愛に死ぬ、
かなえてください、この夢を! (小さきテレジヤ) |
愛は死よりも強い。
愛の極致、その頂点は、愛するもののために、愛に死ぬことにある。
フランシスコと小さきテレジヤの愛の詩は、読むものの心の琴線に強くふれるものである。
この二人の聖人は、美しい愛の詩を書いたのみではなく、
真実、キリストへの愛に燃え尽き、愛に死んだのである。
愛の殉教でなくしてなんであろう。
蝋燭(ろうそく)の火は、燃え尽きる直前、一瞬、いっそうあかるく燃え、やがて燃え尽きて消えてゆく。
私もそのように、キリストへの愛のために死ぬことができるように、
これが、わたしの切なる祈りである。 |
愛に死ぬことをあこがれ、
瞑想(めいそう)することは、ロマンチックであり得ても、
それをみごとに成就することは、容易ではなく、英雄的勇気を必要とするのである。 |
マキシミリアノ・コルベ神父の愛の死は、わたしに強烈な感動を与えた。
神父はポ−ランド人であり、聖母の騎士修道会の創立者であり、
1930年4月24日、日本の長崎に上陸し、日本にも聖母の騎士修道会を設立した人でもある。
神父の創立した、聖母の騎士修道会は、長崎県北高来郡小長井町に現存する。 |
「私は聖人になりたい。しかも、偉大な聖人に!」と、神父は自ら日記にこうしるしている。
このやむにやまれぬ大聖人への憧(あこが)れが、神父をかりたてていたのである。 |
「人生は短い。生きているのは一度きりだ。時間をよく利用し、大いなる神の栄光のために、どうしても大聖人にならなくてはならない。」
幾度も神父の口からほとばしり出たことばである。 |
ただユダヤ人であるという理由によって、罪なくしてナチスに捕らえられた多くのユダヤ人と、
ナチスにとり好ましくない人物、という理由によって逮捕されたポ−ランド人たちで、
アウシュビッツ強制収容所は満員であった。
その中のひとりとして、コルベ神父も入れられていたのである。
ここは、「死の収容所」と呼ばれたところであり、
悲劇の少女アンネ・フランクも収容されたことのあるところである。 |
残酷非道(ざんこくひどう)のナチスは、
理由なき理由をつけ、ユダヤ人をガス風呂(ぶろ)に送り、ある人々を餓死刑にし、
アウシュビッツの犠牲者のみで、その数実に2百万に及んだと言われている。 |
アウシュビッツ強制収容所では、ひとりの逃亡者が出るたびに、
逃亡者が属していたグル−プの中から、10名のものが責任を負わされ、餓死刑に処せられるというきびしい罰則があった。
それが現実として突発したのである。 |
「友よ、さようなら。まことの義のすむところでまた会おう。」一人のキリスト者がそう言った。
「ポ−ランド万歳!私は祖国のために、今こそ命をささげるのだ。」
もうひとりが叫んだ。
「さようなら、さようなら。かわいそうなわたしの最愛の妻!かわいそうなわたしの子供たち、お前たちは孤児になってしまうのだ。」
そう言って、フランシスコ・ガヨウィニチェクは慟哭(どうこく)した。
その叫び声は、良き牧者であるコルベ神父の心を強く打った。 |
「私はカトリックの司祭で、年寄りです。妻子のあるこの人の身代わりになりたいのです。」
他者のために身代わりとなり、
自分のいのちを犠牲としてささげ、愛に死んだマキシミリアノ・コルベ神父の死は、
隣人愛の、最も純粋な、英雄的行為であり、驚嘆すべき愛の最高の表現であると、今や全世界にたたえられている。 |
日々己を捨て、十字架を負い、キリストに従う厳しい修道生活によって、
自己をほふり、いけにえとする霊的生活、その集積が開花し、ついに実を結ぶにいたったのである。
愛に死ぬことは、だれでもできるというものではない。
全人類の罪を負い、十字架上に己(おの)がいのちをいけにえとしてささげた、
キリストの愛のいのちに生きることによってのみ、それは可能なことなのである。 |
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15・13) |
主イエス・キリストが身をもって示された模範にならい、
コルベ神父はキリストの愛に押し出され、愛に死ぬことを実行したのである。
現代においても、かくのごとく、愛に死ぬことを理想としている人々が存在しているということは、なんと大きな喜び、感動であることか。 |
しかし、愛に死ぬことは、だれでもできるというやさしいことではない。
ただキリストの愛にみたされし人においてのみ、可能なことなのである。
「神は愛なり。」(ヨハネの手紙一4・16、文語訳) |
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。
それによって、わたしたちは愛ということを知った。
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネの手紙一3・16)
イエス・キリストの愛を深くあじわったものは、
そのはげしい神愛に焼かれて、
心に愛の深傷(ふかで)を受け、キリストへの愛にかられ、
愛に死ぬことを切に望むにいたるのである。 |
キリストの聖なる愛に迫られ、
己(おのれ)を消耗し、燃え尽きて、愛に死ぬことは、なんとすばらしいことであることか。 |
「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、
もし(キリストの聖なる)愛がなければ、わたしは、全く虚無に等しい。
たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
また、ふしぎとしるしを行うほどの強い信仰があっても、
もし(神の燃ゆるがごとき)愛がなければ、わたしは全く無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を公共事業に施したとしても、
また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛(キリストの愛、十字架の愛)がなければ、
いっさいは無益である。」(コリントの信徒への手紙一13・1〜3参照) |
「今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。
あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。
ただ、聖霊が至るところの町々で、
わたしにはっきり告げているのは、
投獄(とうごく)と患難(かんなん)とが、わたしを待ちうけているということだ。
しかし、わたしは自分の行程を走り終え、
主イエスから賜った、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、
このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」(使徒言行録20・22〜24) |
「わたしは、主イエスの名のためなら、
エルサレムで縛られるだけでなく、殉教することをも覚悟しているのだ。」(使徒言行録21・13) |
使徒パウロは、エルサレムにおいてではなかったが、
事実ロ−マで殉教し、まことに愛に死んだのであった。
愛に死ぬ、それこそは宣教者魂であり、使徒の魂とも言うべきものなのである。 |