〜言泉集〜



アンネのバラ
「アンネの日記」を読み終わったとき、あまりにも強烈な感動と、
アンネに対するいとしさの情が迫りきて、
私は、しばし慟哭(どうこく)せざるを得なかったのであった。
それと同時に、また、いつの日にかアンネの隠れ家を訪問したいとの憧(あこが)れが、
日増しに強くなってゆくのであった。
ついに念願がかなえられ、オランダのアムステルダムにある、アンネの隠れ家を訪問する幸いに恵まれたのである。
あの、写真ですでに知っている、古びた四階建の家である。
急な階段をのぼり、二階、三階、屋根裏の部屋まで、細部にいたるまで注意深く見てまわった。
アンネの日記がよみがえり、
アンネ自身がガイドしているような感じを受け、
アンネの悲しみが痛いほどはだにひしひしと迫りくるのをおぼえた。
「わたしは自分が何を求めているか知っています。・・・・・・
もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、・・・・・
わたしはつまらない人間で一生を終わりません。
わたしは
世界と人類のために働きます!」アンネの日記の一節である。
すべての人間が、自我意志を放棄し、
人生の真の目的と目標のために献身し、
全世界の真の平和と、
全人類の幸福のために献身するようにと叫んでいるのである。
これこそ、アンネが抱いていた宗教的倫理(りんり)であり、
あの戦争・迫害の中から把握(はあく)した理念であり、理想なのである。
彼女は、ただユダヤ人であるという理由によって、
ナチスから迫害を受け、ついに不幸にして捕らえられ、
あの戦慄(せんりつ)すべき強制収容所に送られ、
1945年3月、咲くことなくして、嵐に打ちのめされて散ったバラの蕾(つぼみ)のように、
気高(けだか)い香りを残して世を去った
アンネに捧げる鎮魂歌(レクイエム)
いとしいアンネ!
あなたの涙の手記を
読んだとき、
深い哀愁(かなしみ)が
心にしみとおり
私は慟哭(どうこく)し
世界もまた泣いた。

いとしいアンネ!
ふみにじられしすみれ、
気高い香りに魅(み)せられ
私は はるばるここに来た。
ここに見るもの
なべては悲しく
熱き涙をさそう。

いとしいアンネ!
真珠が苦しみの中から
生れ出るように、
苦難の坩堝(るつぼ)が
高貴なあなたを形成した。

あなたの涙は
真珠よりも貴い。

いとしいアンネ!
あなたは平和の天使
愛の殉教者。
されど尚 今も
高い次元の世界から
人々の心に語りかけ
愛をよびさます。

いとしいアンネ!
あなたの熱い祈りが
新世紀をよび起し、
平和はイェルシャライムに
世界におとずれる。
平和の君
メシアが来られるから。

いとしいアンネ!
共にうたおう この歌を、
「メシヤよ来ませ
われらおんみを待ちおれば
今尚 待ちおれば」
あなたの涙に
私は この歌を捧げる。
このレクイエムを、オット−・フランク氏と親交のある次女道子を通して贈ったところ、
すぐ、フランク氏よりの感謝の手紙を受けた。
「全世界から多くの詩が寄せられましたが、
あなたのお父さんの詩は、
宗教家であり、隠れ家を訪問されました経験から、
最も宗教的で、アンネの抱いていた宗教的理念をみごとに表現していて、
深い感動をおぼえました。
アンネとわたしたちに対する皆さんの愛に対して、
私は、『アンネの形見のバラ』をお送りいたします」としるしてあった。
1972年12月25日、期待のうちに待ちに待った、アンネのバラが到着したのであった。
包装を開くと、10本のアンネのバラが入っていたが、一ヶ月以上かかったと思われ、褐色となり、生気なく、悲しいことに枯死寸前の状態であった。
十株の中から、奇跡的に一本のバラのみがよみがえり、
翌年の5月15日、一輪のバラが咲いたのである。
色は黄金色であるが、三日ほど経過すると、花びらの周囲がほのかにピンク色に変色し、
さらに時間と共にピンクが紫色に変色し、日々変化を見せ、甘い香気を発散する。
まさにアンネの再来・再現である。
アンネの多彩な性格、アンネの心の中に咲き香っていた愛、
平和への憧(あこが)れ、祈りが、形となって表現されているのである。
このアンネのバラを、最初にとらえたのはNHKであり、
「アンネ・フランクのバラ」とのタイトルで放映したのである。
30分間の短編であるが、全日本に大きなセンセ−ションを巻き起こした。
国家・人種・宗教・イデオロギ−を超越し、
平和を真に愛する人々の心に、共感と感動を呼びさました。
池の中に石を投ずると、次第に波紋が広がるように、
読売・毎日・京都新聞、雑誌などにも報道され、
アンネの心に咲いた人類愛、世界平和への精神が、
平和を憧憬(どうけい)する人々の心に、強く浸透(しんとう)していったのである。
NHKの「アンネ・フランクのバラ」の最後のシ−ンは、
オット−・フランク氏が国際電話をもって語りかける、平和のメッセ−ジをもって終わっている。
「私はアンネ・フランクの父、オット−・フランクです。
アンネの日記は、日本で大変よく知られています。
1952年に日本で出版されて以来、
アンネの日記に感動した多くの若い方々から、たくさんの手紙をいただきました。
その方々は、アンネの勇気、明朗、忍耐、信仰、愛を称賛します。
アンネの生涯は、多くの若人にインスピレ−ションを与えてきました。
この人々から受けとった手紙には、
広島と長崎、そしてアムステルダムの悲劇を再びくりかえしてはならないとの、
平和への強い願いがこめられていました。
このような、戦争による共通の苦難から、私達の間に友情が発展し、それは今日まで続いているのです。
私は1971年にイスラエルを訪問し、はからずもナタニヤで、
日本の、しののめ合唱団のグル−プと出会ったのでした。
その人達が例外なくアンネの日記を読んでいることを知った時、
私は感動の涙を禁じ得ませんでした。
その時から、大槻道子さんを知り、また道子さんを通して、
この運動の開拓者であり、道子さんのお父さんであられる、大槻武二氏をも知るに至りました。
そうして、くすしくも相似た体験を持っている私達は、
世界平和という共通の強い願望をもち、
世界に永遠の平和を確立するために、心を合わせて共に祈っているのです。
憎悪(ぞうお)や暴力、戦争は、決して直面している問題の解決にはなりません。
平和は、聖なる理想、平和と愛の精神によってのみ創造されるでしょう。
互いに愛し合い理解を深め合うことによってのみ、
この世界をよりよいものとすることが可能であると、私達は信じているのです。」
四季咲きのアンネのバラは、
咲くごとに、「わたしはつまらない人間で一生を終わりたくありません。
わたしは世界と人類のために働きます」と、
いともやさしく、わたしの心に語りかけるのである。