〜言泉集〜



角  笛
角笛(つのぶえ)は、ただ吹く者がそれを吹くままになりひびくものである。
預言者とは、神の口を意味する。

「人の子よ、
わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、
あなたの耳に聞きなさい。
そして・・・・・あなたの民の人々の所へ行って、
彼らが聞いても、彼らが拒(こば)んでも、
『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」(エゼキエル3・10〜11)とある通りである。
それはあたかも、一人の説教者が日本語で語り、
通訳者がヘブル語でそれを通訳する場合、
何の脚色もなく、
自分の思想を入れることもなく、
そのまま通訳するのが、通訳者の義務であるのと同様である。
真の預言者は、いつの時代にも、その世代の人々から喜ばれない。
主を熱烈に愛し、
祖国を愛し、
同胞を愛し、
人類を愛し、
平和を愛し、
涙をもって訴えるも、
それに耳を傾ける者はきわめてまれであり、
その愛に対する報いは、
常に冷酷、嘲(ちょう)笑、迫害、
そして最後は、殉教的死でさえある。
預言者がこの地上で受けるもの、それは、苦き杯(さかずき)である。
わたしたちは、主の与え給うこの苦き杯を、果たして飲み得るであろうか。
今日、キリスト教の伝道者の説教には、
権威もなく、霊的真迫力に欠け、感動すべき何ものもないと、
しばしば批判されがちであるのは、深く反省してみる必要がある。
「預言者は神の口」との原則、
「神がおつかわしになった者は、
神の言葉を語る」(ヨハネ3・34)という原則を忠実に実行しているか、
つまり、神のメッセ−ジの忠実な、通訳者であるか、との反省である。
説教の成功を測る尺度は、
雄弁とか、神学的とか、哲学的とかによるのではなく、
その説教により
回心者を出し得たか、
聖霊を受ける者が起こったか、
いかに神の言葉が人々の心に深い印象を与え、
人々が霊的に新しくされたか、にかかっているのである。
説教者は、自分に与えられたメッセ−ジに浸っていなければならない。
与えられた神の言葉が、
説教者の血となり肉となり、
全く消化され、
それが自分自身の霊的エネルギ−そのものとなり、
説教者自身がそのメッセ−ジに感動し、
動かされ、鼓舞(こぶ)されているものでなければならない。
感動は感動をよぶものである。
魚釣(うおつり)の名人の言葉には、耳を傾ける価値がある。
「魚を釣る秘訣は、
まず自分の姿をかくすことであり、
第二は、その魚が、何が好物であるかを知り、その好きなえさを与えることである」と。
人を漁(すなど)る使徒職の秘訣も同様であり、
まず自己の姿を全くかくすことであり、
第二は、絶大な価値であるキリストご自身、
真実な神であり、
永遠のいのちそのものであられる主を、
人々の前に鮮やかに顕示(けんじ)することである。
全存在をもって生けるキリストを表現し、顕示すること、これにまさる雄弁はない。
最も偉大な宗教家とは、
大雄弁家ということでもなく、社会的に大事業を経営していることでもない。
永遠に失せることのない事業に専念している人のことである。
「だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。
すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、
またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。」(コリントの信徒への手紙3・12〜15)
使徒職によって人々に聖霊を伝達し、
人々をして聖霊に支配されたものにする事業、
その事業のみがエクレシヤを建設する、価値ある事業なのである、との意味である。
聖霊の切なるうめき、悲しみはほかではない。
聖霊を受けている人々が、
御子のかたちに似たもの(ロ−マの信徒への手紙8・29)にならないこと、
私達が聖人にならないことにある。
自我を出すことによって聖霊を憂(うれ)えしめ、
聖化のみ業に協力しないために、
いつまでたってもキリストに変容しないことに対する悲しみである。
人は人間の前から姿を消した時、神の尊前(そんぜん)に姿をあらわす。
人の声に興味を失った時、神の細き御声をも正確にとらえ、
人との交わりに楽しみを持たなくなった時、神との交わりの中に愉悦(ゆえつ)を味わう者となる。
自己を放棄することは、自分にとり大きな損失と思っている人の、何と多いことであろう。
しかし、それこそ、自分にとって最大の損失なのである。
自己を放棄し、愛に死ぬ。
そこにこそ霊魂の真の平和、聖霊による喜びがある。
わたしはその秘訣を知った。
自我の存在するところに地獄があり、
自我の死滅したところに天国があるとは、まことに至言であり、真実である。
「武士道とは死ぬることと見付けたり」との格言があり、
「戦いでの死は、それが終わりではなく、その頂点である。
死は生命の崩壊(ほうかい)ではなく、それが最も充足し、
最も強くなった現れである」と(モシェ・ダヤン)。
「いつもイエスの死をこの身に負うている。
それはまた、
イエスのいのちが、この身に現れるためである。
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。
それは
イエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
こうして、死はわたしたちのうちに働き、
いのちはあなたがたのうちに働くのである。」(コリントの信徒への手紙二4・10〜12)
殉教者達は、キリストの愛に焼かれ、
愛に傷つけられて、愛する者のために殉教したいと、切に望み憧(あこが)れたのである。
それは愛の頂点であり、愛の最高の表現であると悟ったからにほかならない。
「わたしは没薬(もつやく)の山(カルバリ−の山)
および乳香(にゅうこう)の丘(ゲッセマネの丘)へ急ぎ行こう。」(雅歌4・6)