〜新しいエルサレムの建設〜



新しいエルサレムの建設(教会の建設)
「今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし、・・・・・・彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、
・・・・・彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、
父のみもとに近づくことができるからである。
そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、
聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
またあなたがたは、
使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、
キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
このキリストにあって、建物全体(ユダヤ人と異邦人)が組み合わされ、
主にある聖なる宮に成長し、
そしてあなたがたも、主にあって共に(ユダヤ人と異邦人)建てられて、
霊なる神のすまいとなるのである。」(エフェソの信徒への手紙2・13〜22)
エルサレムにあるユダヤ人の教会、
わたしたちの主イエス・キリストの御名を呼び求めているイスラエル人である皆様がたの上に、
主(アドナイ)であられるイエス(ヨシュア)・キリスト(メシヤ)から恵みとシャローム(平安)とがありますように。
エルサレム教会において、イスラエルの方々に、
わたしが神より受けた啓示を伝えることは、永い間のわたしの祈りであった。
本日その機会をここに得たことは、わたしの喜びであり、光栄とするところであり、そのチャンスを与えて下さったKOFSMANN牧師に対して、心から感謝の意を表する次第である。
本日はイースター記念礼拝であるが、わたしたちにとって大切なことは、単にキリストの復活を記念し、それを祝うのみでは充分ではない。
復活された生けるキリストご自身に出会い、全存在において彼を体験し、キリストの現存を体験し、復活の命そのものに生きることに意義があるのである。

ちょうど今から30年前、私は当時32歳であり、満州奉天(現・中国瀋陽)において、日本人教会の牧師であった。
正確な時を言えば1938年1月9日夕7時のことである。
忽然(こつぜん)として私の面前に、復活のキリストご自身が聖なる御臨在のうちより顕現されたのである。
キリストは私に息を吹きかけ、「我をとりて食らえ」と、み声をかけられたのである。
その息の中から、火の輪のごときものがあらわれ、私に近づいた。
わたしが見ると、それは「言」というサファイヤのように輝いた文字であった。
その輝く「言」がわたしの口に触れ、私の腹の中にとどまったのである。
その瞬間、
言(ことば)・・・・・
ロゴス・・・・
キリスト・・・・
神・・・・
聖霊・・・・・
三位一体・・・・
実体・・・・・
ロゴスは神なり・・・・
これがうちに命(ゾーエ−)あり・・・・
永遠の命!
」(ヨハネの手紙1・1〜4)わたしは神に出会ったのである。
私は真実生けるキリストに出会い、聖霊をを吹き込まれ、キリストの現存を鮮やかに体験したのである。
私は、その瞬間、いまだ持たなかった神のいのちを所有し、
いまだ持たなかった神の性質、本性・実体に参与し、
キリスト・イエスに在(あ)って神に生きる者とされ、
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
ことを体験したのである。
愛するイスラエルの人々よ、ユダヤ人が律法によって熱心に追求したものを、
私はただイエスのメシヤ性と神性を信じ、信じて彼の御名によって、
永遠の命、神ご自身を嗣業として受けたのである。
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって、約束のものを獲得したのである。

この神秘的と思われる神体験は、イザヤの体験と同じことであり(イザヤ書6・5〜7)、
エレミヤもまた同様であった。
「主(アドナイ)はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、
『見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、万国の預言者とした』」(エレミヤ1・9〜10、5)とある通りである。

彼らはまことに生ける神と出会い、
神の現存をうちに体験し、
神の口とされ、神は彼らの口を通して語られたのである。
その時、主は重大なことを啓示されたのである。
異邦人がただ信仰によって、御名によって永遠の命を獲得することによって、
イスラエルを覚醒し、
その神主(アドナイ)とメシヤとを求めさせるためであると(ローマの信徒への手紙11・11)。
さらに主は映画を見るがごとく、
ルカ福音書15章にしるされている「放蕩(ほうとう)息子」のドラマが内臓している霊的秘義について啓示されたのであった。
弟の放蕩息子は異邦人キリスト信者のシンボルであり、
長兄はイスラエル民族のシンボルであることを示されたのである。
異邦人の信仰の特色は、神に来て、神に求める宗教を意味している。
神ご自身を求めるのではなく、つまりGODを求めるのではなくGOLDを求めたのである。
この異邦人信仰は、必ず行き詰まらざるを得ない。
神より遠く離れた放蕩三昧(ざんまい)の生活は、ついに瀕死(ひんし)の状態にいたらしめ、
彼はそこにおいて自己の誤った信仰に気付き、
「立って、父のところに行こう」と、
神に求めた信仰から神を求める信仰へと180度の回心をしたのである。
彼が神を求めたとき、神も彼を求められ、ついに山上において出会ったのである。
しかり、カルバリーの山上の十字架こそは、神と罪人とが出会う場所なのである。
「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
神との出会いの体験は、彼に何をもたらしたであろうか。
「走り寄って抱きかかえ、そして<激しく>接吻した。」(ルカ15・22、詳訳)
抱擁(ほうよう)は神との一致のしるしであり、
接吻はイザヤ、エレミヤの体験において知るごとく、聖霊の賦与を意味している。
復活のイエスも、弟子達に息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ」と(ヨハネ20・22)。
「どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください」(雅歌1・2)と主を求める人々が叫び求めているものなのである。
「最上の着物を着せ」(ルカ15・22)
この体験は、古き人をぬぎすて、主イエス・キリストを着ることを意味している(ローマの信徒への手紙13・12〜14)
己が義をぬぎ、神の義であるキリストご自身を宿し、
キリストを全的に体験し、キリストを反映する者となることにほかならない。
「手に指輪をはめ」指輪は新しい契約のしるしであり、
その指輪には花婿なるキリストの御名が刻まれており、聖霊の印を表しているのである。
「足にくつをはかせ」放蕩息子の足は素足であり、泥とほこりに汚されていた。
はだしは奴隷のシンボルである。
彼の半生は原罪によって汚され、罪の奴隷の生涯であった。
彼はキリストの血により、聖霊の授与によってきよめられ、
実子であるしるしの靴(くつ)を与えられたのである。
聖霊の浸透を受け、その力が足にまで及ぶとき、
彼はキリストの命によつて、愛の律法を実践するものとされたのである。
「子牛を引き出してほふり」カルバリ−山上にほふられし、
神のみ子キリストこそは、わたしたちのための過越なのである。
「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6・55〜57)と、
キリストご自身が言われた通りである。
「この私の子が、死んでいたのに、生き返り、見えなくなっていたのに見つかったのだから。」(ルカ15・24、詳訳)
彼は真の生命に参与し、キリスト・イエスにあって神に生きる者となったのである。
さて、ユダヤ教徒を象徴する長兄に注目したい。
「兄はおこって、家にはいろうとしなかった。」
なぜ兄は怒ったのであろうか。
人間は空腹なとき怒りやすいものでる。HUNGRYなときANGRYになるのである。
「私はずっと長年あなたに仕えて、一度もあなたの命令にそむいたことがありません(律法主義者)。」
たしかにユダヤ人ほど熱心に律法を守ってきた民族はないのである。
しかるにこの兄が怒ったことは、
「律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」(ガラテヤの信徒への手紙2・16)とのみことばを雄弁に証明したのである。
兄が律法を守ったのは愛のゆえではなく、父に対するおそれのゆえである。
律法には限界があり、罪を示しても人を罪から救う救う力はなく、
永遠の命を賦与することができないからである。
父は怒り狂う兄に愛情を示し、「子よ、私のものは全部あなたのものである。」
きたりて食せよと、
真の過越であるキリストへと、このすばらしい愛の宴(うたげ)に招くのである。
「彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光(に参与すること)も、
もろもろの契約も、律法を授けられることも、(神を)礼拝(すること)も、数々の約束も彼らのもの、
また父祖たちも(アブラハムも偉大な預言者たちも)彼らのものであり、
肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。」(ローマの信徒への手紙9・4〜5)
まことに、全部あなたのものなのである。
ルカによる福音書第15章の放蕩息子の物語のうちに、
かくのごとき福音の奥義が、預言的奥義が啓示されているのである。
それは、最初に拝読したエフェソの信徒への手紙第2章11節以下22節までにしるされている啓示と全く一致適合するものである。
「キリスト・イエスにあって、キリストの血によって、一つの御霊の中にあって、
ユダヤ人と異邦人との両者を一体として、組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
主に在って共に建てられ、霊なる神殿となるのである。」(エフェソの信徒への手紙2・14〜22参照)
イスラエル人にとり、神殿の建設は至上のあこがれであった。
それはメシヤの来臨を迎える条件と考えられていたからである。
しかし、この神殿は大理石や木材によって造られるのではなく、
キリストの血によってあがなわれ、
聖霊を受け、頭(かしら)なるキリストに合体された神秘体、花嫁なる教会(エクレシャ)のことである。
この神殿、新しきエルサレムは、ユダヤ人と異邦人との組み合わせによって造られるものである。
今現に礼拝をもっているこの教会堂は、左右同数の柱によって建てられられ、
天井も左右の材木が共に組み合わせられ、みごとに完成されているごとく、
ユダヤ人と異邦人と、御霊の中に一体として結合せしめられ、
神ご自身が現存されるところの栄光に輝く教会が建てられるのである。
このエクレシャの完成こそは、メシヤの再臨に直結するものである。
それゆえ、終末におけるイスラエル民族の救いこそは、
エクレシャの完成のポイントであり、キリストの再臨を実現せしめるキイ・ポイントなのである。
私がイスラエルの救い、エルサレムの救いのために祈り、
イスラエル人に福音を伝達するのは、この使命のためにほかならない。
最後に、旧約聖書の中から、イスラエル人と異邦人とが一つに組み合わせられることが、
いかに神の大経綸を実現するために必要であるか、その実例をあげて説明したい。
御承知のごとく、聖書の中に女性の名が書名となっているものが二つある。
ルツ記とエステル書がそれである。
女性の名が聖書の中の書名となっていることに関しては、
深い理由があるはずであり、重大な奥義が秘められているはずでる。
ルツは異邦人であり未亡人であった。
彼女には、キリストなく、イスラエルの民籍なく、約束や契約にあずかりなく、
世にあって望みなく、神なきものであった(エフェソの信徒への手紙2・12)。
これこそ異邦人の本来の姿なのである。
しかるに、愛に富み給う主(アドナイ)は、
異邦人にも救いの手をのべ、
彼女を導き、イスラエル人にして愛に満ちたあがない人ボアズと出会わされられた。
ボアズは彼女を愛し、ついに彼女を妻としてめとったのであった。
どんな結果が生まれたであろうか。
オベデが生まれ、オベデからエッサイが、そうしてエッサイからダビデ王が出現したのである。
異邦人の女性ルツがイスラエル人ボアズと結婚したことによって、
ダビデが生まれ、その家系からついに主イエス・キリストが生まれたのである。
つまりこのことによってメシヤの来臨、神の大経綸成就のために彼女は参与したのである。

この歴史的事実は何を意味するのであろうか。
それは、ユダヤ人と異邦人がキリストに在(あ)って一つとされ、
花嫁なる教会(エクレシャ)が完成されることによって、
花婿なるキリストが再臨されることを表しているのである。

この奥義は大きい。
それはキリストと教会とを指し示しているのである。
エステル書を学びたい。あの時イスラエル民族は滅亡の危機に直面していたのである。
サタンは常に神の経綸をストップさせようと計画するものである。
イスラエル民族の運命はまさに風前の燈火(ともしび)のごとくであった。
かかる危機において主は、
イスラエルの信仰あつき乙女エステルを召し出し、
時の支配者である異邦の王、アハシュエロス王と結婚せしめ、
サタンの計画をみごとにくつがえし、選民を奇跡的に救われたのであった。
イスラエル人と異邦人がキリストに在って御霊の中に結合せしめられ、
一体となることによって、イスラエル民族が救われ、人類が救われる偉大な啓示である。
親愛なるイスラエル人よ、信仰を一つにし、心を一つにし、思いを一つにして、このエクレシャの完成のために献身しようではないか。
親愛なるイスラエル人よ、声を一つにして祈ろうではないか。
「讃(ほ)むべきかな、主の名によって来たる者にホザナ!」と。
「アァメン、主メシヤよ、きたりませ」と、心を一つにして祈りたい。