〜聞け イスラエルよ!〜



わ が 夫
わたしは最近預言を研究するように迫られ、毎日数時間にわたり、預言書の研究に専念しているのである。
学びつつある内に、主がこの終末時代に実現される、
イスラエルに対するすばらしい約束を、
新しい光のもとに再発見することができたのである。
本日は、最も強烈な印象を受けたテーマについて語りたい。
さて、ただいま拝読したホセア書第2章16節、
「主は言われる、その日には、あなたはわたしを『わが夫』と呼ぶ。」
このみことばに注目したい。
聖書を学ぶとき、神と人間との関係に、様々な段階があることが示されている。
例えば王と家来との関係、父と子、主人と奴隷(どれい)、夫と妻の関係などである。
これらの関係、段階の中で、
主ご自身が最も望まれる関係は、夫婦の関係であることが示されている。
イザヤ書54章5節においては、神とイスラエルの関係がいかに親密であり、不可分関係であるかを示している。
それは、愛によって結ばれる一体関係なのである。
「あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。
あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる」と。
妻にとり、自分の夫がすばらしい人物であることは、幸福の第一条件である事は論ずるまでもないことであろう。
人間にとって最もすばらしいこと、
最も幸福なことは、神ご自身と夫婦関係を結び、一体となることである。
「人生の目的・目標、神こそそれである」からにほかならない。
「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、
平安を与えるわが契約は動くことがない。」(イザヤ書54・10)
移りやすい人間の愛にくらべ、神の愛のすばらしくいかに甘美であることであろう。
かくのごとき愛の夫を持つことの中にこそ、真の幸福が存在するのである。
「あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、
また、たちまち消える露のようなものである。」(ホセア書6・4)
ここには、愛したものに愛されない神の痛みが語られている。
「それゆえ、見よ、わたしは彼女(イスラエル)をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。」(ホセア書2・16)
荒野とは逆境、試練を意味する。
実際、イスラエル民族ほど試練に合った民族は、ほかに見いだすことができない。
人間は、逆境に立ち、試練に直面した時、自己を反省し、自己の力の限界を知るものである。
その時、真の孤独を痛感し、主(アドナイ)を求め、メシヤによる救いを求めるにいたる。
主がイスラエル民族を荒野に導かれた目的は、
苦しめることが目的ではなく、
神ご自身を、メシヤご自身を求めさせることが目的であり、
孤独の中で、いかに神が彼女を愛しているかを、彼女にねんごろに語り示すためである。
イスラエル民族の太祖ヤコブは、
逃れてベテルの荒野に石を枕とし、一夜の夢をむすんだのであった。
その夜、彼は孤独と恐怖におそわれ、
主ご自身を呼び求め、
ついに主との出会いを体験し、
主よりすばらしい啓示を受けたのであった(ホセア書12・5)
「わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた。」(ホセア書11・4)
「わたしはイスラエルに対して露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張り、その枝は茂りひろがり、
その麗しさはオリブの木のように、そのかんばしさはレバノンのようになる。
彼らは帰って来て、わが陰(かげ)に住み、園のように栄え、
ぶどうの木のように花咲き、
そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。」(ホセア14・6〜8)
ここには、主ご自身のイスラエルに対する熱烈な愛が告白されている。
たれか感動しない者があろうか。
神とイスラエルとにおけるこの関係は、
神の実体と人間の実体との結合、
純粋な愛と愛との深い結合、聖なる愛による一致と抱擁とを意味している。
主ご自身とイスラエルとの間に、この夫婦関係が成立する時、
神の救いのドラマはクライマックスに達する。
「また弓と、つるぎと、戦争とを地から断って、あなたを安らかに付させる。」(ホセア書2・20)

人類は地球上から戦争を全くなくすることを望み、国際会議を開き、軍縮を提案し、不戦条約を締結することしばしばであった。しかし、歴史が証明するごとく、それはいつの時代にも長くは続かなかった。
人類にとって真の平和は、白昼夢(はくちゅうむ)に過ぎないのであろうか。
聖書の啓示はこうである。

「終りの日に次のことが起こる。
   ・・・・・・・・・・・・・
多くの民(人類)は来て言う、
『さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家へ行こう。
彼(メシヤ)はその道をわれわれに教えられる、
われわれはその道に歩もう』と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。」(イザヤ書2・2〜4)
イスラエル民族がメシヤを信じ、
メシヤを心より受け入れるとき、
平和の君であるメシヤはエルサレムに帰還され、
エルサレムは世界平和のセンターとなる。
そして、神の愛の律法がすべての人間の心の核心にきざみしるされ、
神のことばによって人類が道徳的に再創造されるとき、
心より暴力と戦争を嫌悪し放棄するにいたるからである。
イスラエル民族の回心、
イスラエル民族の霊的復興・回復、平和の君であられるメシヤの来臨、
そこに平和の鍵があるからである。
ホセア預言第2章21節及び22節を注目いたしたい。
「わたしは永遠にあなたと
契りを結ぶ
すなわち正義と、公平と、いつくしみと、あわれみをもってち
ぎりを結ぶ
わたしは真実をもって、あなたと
ちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。」
この短い2節のなかに、「ちぎりを結ぶ」ということばが三度繰り返されているのである。
文語約では「娶(めと)る」と訳されている。
かくも三度繰り返されていると言うことは、
主ご自身がいかにそれを熱望されているかと言うことの強い表現にほかならない。
「信実をもって永遠にあなたとちぎりを結ぶ」と仰せられるのである。
結婚とは、契約上のサインでも、指輪の交換でもない、
両者が全人格的に渾(こん)然一体となることである。
イスラエル民族は、今こそ、この驚くべき主ご自身の愛に応(こた)えるべきである。
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(エレミヤ書31・3)
ここには、実に言葉にあらわし得ない、切ないまでの愛の告白がある。
わたしはいまこそイスラエルの方々に切にに懇(こん)願する。
かくまであなたを愛し、あなたの愛を期待し給う、
あなたの主、あなたの神、あなたのあがない主、
あなたの夫なるイスラエルの聖者にかえり、
あなたの待望久しかりし、メシヤご自身を求めよと。