〜聞け イスラエルよ!〜



新しい永遠の契約
人類の歴史の中において、
過去に栄光に輝く歴史を持った民族があり、
それらの民族は過去を振り返り、それを今さらのごとく誇っているのである。
ギリシャ、ローマ、イギリスなどがそれである。
イスラエルはこれらの民族・国家とは異なり、
黄金に輝く未来を約束されており、
未来の栄光を期待し誇り得る、唯一の民族なのである。
異邦民族が持った過去の栄光は、
草は枯れ花はしぼむたぐいの、きわめてはかなく時の間に消えゆくものであった。
しかし、イスラエルに約束されし栄光は、永遠に不滅のものである。
この、未来に約束されし不滅の栄光に輝く黄金時代を実現するために、
今こそイスラエルは、選民としての自覚と、
その偉大な使命に目覚めなければならないのである。
選民の偉大な使命とは、
神の人類救済の経綸における、み業の協力者となるということにほかならない。
単に民族意識に目覚めるのみでは充分ではなく、
その使命を達成するための、
主ご自身が要求される条件を、まず満たすべきである。
「わたしは聖なるものであるから、
あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記11・45)との条件をである。
あなたがたは、偉大な教育家、政治家、科学者、実業家、音楽家であられる。
しかし、あなたがたの神、主(アドナイ)は、
あなたが偉大な教育家、政治家、ジャーナリストであられるとともに、
アブラハム、モーセのごとく、
偉大な信仰の人、義人、聖なる神の人であることを求められるのである。
それこそは、選民が選民であるために要求される第一条件にほかならないからである。
アダムの子孫である人間が、神と同質の聖(きよ)さを持つことは、
ある意味において不可能である。
しかし、ある手段・方法を採用することによって、それは可能でもあるのである。
それは、メシヤによる豊かな贖いによってのみ可能となるものである。
預言者エレミヤによって告げられた、
新しい永遠の契約において可能なのである。
「主は言われる、
見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。
わたしは彼らの夫(おっと)であったのだが、
彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、
わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となると主は言われる。」(エレミヤ書31・31〜33)
この新契約はシナイ山における契約を取り消すものではなく、
それを完成し成就するものである。エゼキエルの預言がそれを適切に示している。
「わたしは清い水をあなた方に注いで、すべての汚れから清め、
またあなたがたを、すべての偶像から清める。
わたしは新しい心をあなた方に与え、
新しい霊をあなたがたの内に授け、
あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまたわが霊をあなたがたの内に置いて、
わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、
わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エレミヤ書36・25〜28)
新契約の特色を一口に言えば、
主ご自身が人間を全く新創造されることであり、
主ご自身が人間のうちに宿り、現存される結果、
人間が神のいのちそのものに生きることによって、
神の律法をみごとに成就することにある。
神が人間のうちに内在し、現存されるとき、
もはや人間にあって行為するものは、インマヌエルの主ご自身なのである。
これが新契約の奥義なのである。
その時こそ、まさに不可能が可能となるのである。
主(アドナイ)は今こそ、
イスラエルが自らの力によって行動するのではなく、
エル・シャダイの主にあって行動することを求めておられるのである。
偉大であったダビデ王は、
なにが彼をして偉大ならしめたか、その秘訣を自作の詩によって示している。
「アドナイはわが力である。」
このことばは幾度も彼の詩の中で強調されている。
彼の輝かしい勝利の秘訣は、
神ご自身が彼にあって、すべてのすべてであったことに尽きるのである。
ゼカリヤは彼の預言の十二章八節に、「その日、主はエルサレムの住民を守られる。
彼らの中の弱い者も、その日には、ダビデのようになる。
またダビデの家は神のように、彼らに先だつ主の使いのようになる」と預言している。
もしシナイ山の契約が完全無欠のものであり、
人間を聖なるものとなし、
永遠の生命を賦与(ふよ)し、
人間を神的なものに変容せしめ得るなら、
主は決して新契約を立てる必要はなかったはずである。
わたしはいま、強力ビタミン剤をもっている。
しかし、それがわたしの外部にあるとき、わたしに何の影響をも与え得ない。
それをわたしが飲み、摂取しない限り、エネルギーを与え得ないのである。
しかし律法が人間の外側に立っているとき、その影響感化はきわめて弱いものである。
しかるに新契約は、「心の中の律法(トーラー)」であるというにある。
神の御霊(みたま)によって人間の心の核心に、
律法(トーラー)の精神そのものが吹き込まれ、
神の御名が印され、
神的生命が賦与され、
神性への参与により、
人間が本質的に変容されるのである。
預言者エゼキエルもまた、
「わが大いなる名の聖なることを示す。
わたしがあなたがた(イスラエル民族)によって、
彼らの目の前に、
わたしの聖なることを示す時、
諸国民(全人類)はわたしが主(アドナイ)であることを悟ると、
主なる神は言われる」(エゼキエル書36・23)と語っている。

この預言は、イスラエル民族に対する神の啓示であり約束である。
イスラエル民族が聖なる神との出会いを体験し、
新契約を体験し、
神にあって聖化され、
聖なる民に変容するとき、
全人類は神的に変容されしイスラエル民族との出会いにおいて、
聖なる主に出会うのである。
ここにこそ、イスラエルの栄光に輝く、選民としての使命が存在するのである。
それゆえ、「主なる神はこう言われる、
イスラエルの家は、
わたしが次のことを彼らのためにするように、
わたしに求めるべきである。」(エゼキエル書36・37)

イスラエルに対する、すべてのよきことの預言の成就、
イェルシャライムの平和、
イスラエル民族の霊的回復、
メシヤの来臨、
全世界・全人類の救いと平和、
それらはすべて、
イスラエル民族が新しい永遠の契約を体験し、
神的変容を体験することにかかっているのである。
全世界・全人類の永遠の至福にかかわる運命の鍵(キイ)は、
実にイスラエル民族の手中にあるのである。
それゆえ、イスラエル民族は、
自分自身の全き救いと聖化のため、
また全人類の救い、全世界の平和至福のために、
聖霊を求め、神との出会いを体験する義務を、義務付けられているのである。
アブラハムの子孫は、全人類の祝福の源泉となるべく召命を受けているのである。
人類の歴史の中で重大な一時期を画(かく)する新局面、
すなわち、イスラエル民族が新しい永遠の契約を身をもって体験するときはいつか、
この重大問題点に触れたい。
エゼキエルは、三十六章において新契約の内容を示し、
三十七章において、イスラエルの国家的回復と霊的回復について語っており、
国家的回復の後、霊的回復が約束されているのである。
「わたしがわが霊をあなたのうちに置いて
あなたがたを生かし、
あなたがたをその地に安住させる時、
あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、
これをおこなったことを悟ると、主は言われる。」(エゼキエル書37・14)
さらに、三十九章二十九節において、
「わたしは、
わが霊をイスラエルの家に注ぐ時
重ねて
わが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる」としるされている。
神の霊が人間に臨み、
人間の心の核心に内住されるとき、
神の現存を鮮やかに見ることを示している。
そのとき、イスラエル民族は叫ぶであろう、
「わたしはもう、神を単に信じているのではない。今や神を実際に見ているのである。
モーセが顔と顔と合わせて見たごとくに、
わたしは永遠の命を、
未来にではなく今こそ現実に所有したのであり、
わたしは神のいのちにすでに生きているのである」と。
このすばらしい新しい永遠の契約は、
ひとりの方すなわちメシヤによる、完全無欠のあがないの結果、
実現・成就されしものである。
イスラエルのすべての希望が満たされるのは、
メシヤによってであり、
ダビデの子である平和の君メシヤの到来にすべてはかかっているのである。
メシヤ時代が到来したそのとき、
イスラエル民族は、人類の歴史の中で未だかって経験したことのない、
栄光に輝く至福の時代を体験するであろう。
それゆえ、全精神を傾倒し、メシヤご自身を熱烈に追及すべきである。