「よくよくあなたがたに言っておく。
わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。
そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。
わたしが父のみもとに行くからである。」(ヨハネ14・12)

「あなたがわたしを世につかわされたように、
わたしも彼らを世につかわしました。」(ヨハネ17・18)
本日のメッセージの主要テ−マは、「地上のキリスト」である。
換言すれば、「もうひとりのキリスト」との意味である。
永遠の存在者、天地万物の創造者、神ご自身であられる言(ロゴス)が、
聖霊によって童貞女マリヤのうちに宿り、
人性(人間性)をとり、この世に来られたかた、
それが主イエス・キリストご自身なのである。
イエス・キリストは自ら十字架を負い、
カルバリ−山上にて血を流し、
彼の神性とメシヤ性を信ずる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得る救いの大業をなしとげられた。
三日の後、死人の中より復活し、
四十日にわたりしばしば弟子達に現われ、
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終りまで、
いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28・18〜20)
こう言って、イエスは多くの弟子達の見ている前で天に上げられ、
その姿が見えなくなったのであった(使徒言行録1・9)
言語に絶する御苦難によって、人類に永遠の生命を賦与する贖いは成った。
この救いのよきおとずれを、贖いの効果たる永遠の生命を伝達するために、
地上にキリストの現存をもつ神秘体を必要として、
主イエス・キリストはまず使徒を選ばれたのである。
それゆえ、使徒はもうひとりのキリスト、地上の他のキリストと言われるのである。
「父がわたしをおつかわしになったように、
わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ20・21)
とのキリストのことばが、そのことを証明している。
聖霊を受け、もうひとりのキリストとしてキリストの事業を継承し、
地上のキリストとしてこの世に遣わされしもの、それが使徒なのである。
この聖にして偉大な使徒職に参与する者は、
使徒パウロのごとく、
「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。
わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、
わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)との体験、生けるキリストの現存をうちに持たなければならない。
「わたしを信じる者は、
またわたしのしているわざ
(キリストと同質の業、メシヤとしてのわざ、神的なわざ)をするであろう。
そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。」(ヨハネ14・12)
使徒とはもうひとりのキリスト、地上のキリストである以上、
キリストの人性の延長であり、再現であらねばならないのである。
使徒職をみごとに成功せしめるためには、
どうしてもキリストに一致し、
その神的泉から霊的エネルギ−を豊かに吸収しなければならない。
ただ聖霊に満たされた者のみが、
キリストのわざに実際に参与し、かつそれをみごとに成し遂げる。
主イエス・キリストの公生涯において、
その神性とメシヤ性が鮮明に啓示され、
人々に強烈な印象を与えた奇跡(しるし)を、
初期、中期、後期より、三つを選び出して学ぶことは、極めて意義深いと思われる。
ヨハネによる福音書第二章一節より十一節までにしるされた、
第一のしるしについて注目いたしたい。
カナの婚宴におけるキリストの奇跡は、水をぶどう酒に変化せしめ、
それによって花婿を窮地より救われしことである。
このしるしの意味するものは、
キリストこそは物質を根本的に本質的に変化せしめる、
造化の主であることを啓示されたことである。
メシヤの最もメシヤ的使命は、人間を根本的に、本質的に新創造することにある。
「だれでもキリストにある(接ぎ木される)ならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、
見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリントの信徒への手紙二 5・17)
生まれながらにして原罪を宿し、霊的死人である人間に、
聖霊を伝達し、
原罪をきよめ、
神の性質に参与せしめ、
神のいのちに生きるものとし、
聖人とならしめること、
それが使徒職であり、それは人々を聖化する事業に参与することにほかならない。
ヨハネによる福音書第六章における、五つのパンをもって数千人の群衆を養い、
彼らを飢えより救い給うたしるしについて学びたい。
この奇跡において啓示されるのは、キリストの全能性である。
キリストこそは天から下ってきたまことのパンであり、それを食べるものは永遠に生きる。

ここにいのちなるキリストが啓示されている。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、
永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせる。
・・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる者もわたしによって生きる。
・・・・・このパンを食べる者は、いつまでも生きる。」(ヨハネ6・54〜58)
使徒はもうひとりのキリスト、地上のキリストである。
司はもうひとりのキリストであり、神には人を与え、人には神を与えるものである。
使徒はこのキリストの事業、使命を継承し、
永遠のいのちにあずかるように予定されているすべての異邦人に
キリストご自身を伝達し、
終末において予定されている十四万四千人のイスラエルに、
聖霊によって生ける神の印をおすであろう(ヨハネの黙示録7・2〜4)
ヨハネによる福音書第十一章にしるされた、ラザロ復活の奇跡は、
イエス・キリストの公生涯において神性が最も顕著に啓示されたしるしであった。
このイエスのなさった奇跡を見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じたのであった。
それは、イエスの神性とメシヤ性をもはや疑う余地のない、
圧倒的驚異的奇跡であったからである。
「わたしはよみがえりであり、命である。
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。
あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11・25〜26)
復活なるキリストの神性、永遠の生命なるキリストの神性を信ずる者は、
その御名によって彼のいのちそのものに参与し、
「キリスト・イエスにあって神に生きている者である」(ローマの信徒への手紙6・11)
ゆえに、神と共にいつまでも生きるのである。
人祖アダムの堕罪によって、
死はすべての人に、
霊的遺伝の法則により及んだのであった(ローマの信徒への手紙5・12)。
それゆえ、愛なる神は、
主イエス・キリストにより永遠のいのちを得させるため、御子キリストを賜ったのである。
それは御子を信ずる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである(ヨハネ3・16)
真のいのちを与えること、霊的死者を復活させることは、
いずれも神の権能に属することである。
しかるに、使徒はある方法でその事業に参与するのである。
頭(かしら)なるキリストに接ぎ木され、
キリストと一致結合せしめられ、
キリストの神秘体とされ、
復活であり命であるキリストの現存をうちに持つことによって、
それは可能となるのである。
「この教会はキリストのからだであって、
すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、
満ちみちているものに、ほかならない。」(エフェソの信徒への手紙1・23)
キリストの神秘体は神の充満(プレローマ)にほかならないのである。
「またあなたがたが<自分の全存在において>満たされて、
神の充満(プレローマ)に達する
<〔すなわち〕最大限の豊かな神のご臨在をいただき、
神ご自身によって全く満たされ、
あふれているからだとなる>ためです。」
エフェソの信徒への手紙3・19、詳訳)
それゆえ、地上のキリストである使徒は、
どうしても神の充満(PLEROMA)を体験しなければならない。
キリストの神秘体であるわれわれは、
頭(かしら)なるキリストを現在において啓示し、
みごとに反映する存在であらねばならない。
使徒が真実聖霊の充満を持つとき、
生ける水である聖霊が、
使徒の腹より川となり流出し、
あまねく世人に注ぐことが可能となるからである。
わたしたちはこのいのち、
聖霊の流れを全世界に注ぐために、使徒職への召命を受けたのである。
神の充満、聖霊の充満を体験してこそ、
使徒はもうひとりのキリスト、現在における地上のキリストたり得るのである。