ただ、聖霊があなたがたにくだる時、
あなたがたは力を受けて、
エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
さらに地のはてまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1・8)

五旬節(ごじゅんせつ)の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、
一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、
いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒言行録2・1〜4)
ペンテコステ(五旬節)の記念礼拝にあたり、
「聖霊の降臨とその意味するもの」と題して、メッセージを語りたい。
五旬節とは、ギリシャ語のPENTEKOSTEすなわち「五十日目」の意であり、
ヘブライ的表現をすれば、「七週の祭り」にあたり、
過越(すぎこし)の祭りより五十日目に当たるゆえに、五旬節とよばれているのである。
ペンテコステの日における聖霊の降臨は、
地上に、全く新しい祝福に満ちた画期的時代をもたらしたのである。
それは、旧約のすべての預言者が声を大にして預言したものであり、
イエス・キリストご自身も約束されしものであり、その預言・約束の実現成就なのである。
五旬節はイスラエルの三大祭りの一つであり、
「刈り入れの祭り」ともいわれており、
農作物の初穂をヤハウェにささげる、喜びと感謝の日であった。
「あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭り・・・・・
を行わなければならない」(出エジプト記23・16)とある通りである。
したがって、この刈り入れの祭りは、イエス・キリストの御苦難、
あがないの効果である聖霊の授与、
百二十人のユダヤ人が聖霊の初穂として神にささげられ、
キリストの教会が誕生したことのシンボルなのである。
この意味においてこそ、ペンテコステは真の意味を持つのである。
今を去る3350年前、
モーセによってエジプトの奴隷の生涯より解放されしイスラエル民族は、
過越の祭りを祝いエジプトを脱出し、
五十日目に当たる五旬節の当日、
シナイ山上において十戒を受け、ヤハウェと契約を締結したのである。
この記念すべき旧契約締結の日に、
イエス・キリストの血による新契約、聖霊の降臨・授与が実現・成就され、
教会が誕生したのである。
聖霊の降臨はかくのごとく、教会時代という新時代をもたらしたのである。
「聖霊があなたがたにくだる時、
あなたがたは力を受けて、・・・・・・わたしの証人となる。」(使徒言行録1・8)
クリスマスは、神が人となられたことを意味するが、
ペンテコステは、人が聖霊に充満され、もうひとりのキリストとなることを意味している。
もうひとりのキリスト、生けるキリストの証人となるためには、
どうしても聖霊の印を受ける必要がある。
「彼にあって、あなたがたも真理のことば、
すなわち、あなたがたの救いの喜ばしい知らせを聞いて、
彼を信じた者として、長い間約束されていた聖霊の証印をもって印を押されたのです。
このかた〔み霊〕は、私たちの嗣業の保証
<前もって与えられる経験、私たちの受け継ぐものの手付け金>であり、
贖(あがない)いの完全な所有を予期させ、
神の栄光を賛美させるのです。」(エフェソの信徒への手紙1・13〜14、詳訳)
印を押すことの秘儀は、そのものの姿を複写することであり、再現することである。
聖霊が人間の核心に臨み、神の御名を印されてこそ、
人はキリストの似姿となり、
キリストの証人、
キリストを鮮やかに反映する存在とされるのである。
それは、聖霊を受けることによって、キリストの現存を体験するからである。
聖霊を受けることによって、
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられ、
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
存在とされるからである。
それは、もはやわたしたちが、自分のために生きることなく、
キリストのために生きるためであり、
キリストご自身が、わたしのうちにあって今を生きるためである。
かくして、わたしたちの地上生涯が、キリストの地上生涯の延長・再現となるためである。
アルスの司祭ヴィアンネ−師は、
あまりにも聖霊に浸透され聖化され、
キリストに変容されていたので、
司祭と出会った人々は、人間のうちに現存する神を見て、即座に回心したのであった。
十字架の聖ヨハネは、
「聖霊を受け、キリストと深く一致した霊魂は神化され、参与によって神となる」
と言っている。
使徒パウロも、「そして、私たちはみな、顔からおおいを取りはずされて、
いつも主の栄光を見ている<鏡のように反映させている>〔ので〕、
いよいよ増し加わる輝きをもって
<栄光の一つの程度からさらに次の程度へと進みながら>
〔主ご自身の〕みかたちへと絶え間なく化せられ(変容し)ていくのです。
〔というのは、この事は〕
み霊〔であられる〕主から〔来るからです〕。」(コリントの信徒への手紙二3・18、詳訳)
と言っている通りである。
「シオンの子らよ、
あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。
主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、
またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、
前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。」(ヨエル書2・23)
イスラエルには二度の雨期がある。
十月十一月頃に降る雨が秋の雨であり、
先の雨と言われている(九月が正月である関係上)。
春二月三月頃に降る雨が春の雨であり、後の雨である。
神は預言者を通して、
契約の民であるイスラエル民族を義とするために、
二度にわたって聖霊の傾注を約束されたのである。
ペンテコステの日に、エルサレムにおいて聖霊の傾注を与えられたのが先の雨である。
使徒ペテロは、ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住む人々に、
この聖霊の傾注は、預言者ヨエルが預言したことの成就であると言っている。
「神がこう仰せになる。
終りのときには、
わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
若者たちは幻(ビジョン)を見、
老人たちは夢を見るであろう。
その時には、わたしの男女の僕(しもべ)たちにも
わたしの霊を注ごう。
そして彼らも預言をするであろう。」(使徒言行録2・17〜18)
使徒ペテロは、ペンテコステにおける聖霊の傾注は
ヨエルの預言第二章二十八〜二十九節の実現・成就であると指摘したのである。
この時点において先の雨、すなわち秋の雨に対する約束は、みごとに成就したのである。
偉大な使徒パウロは、キリスト教会の霊的アレキサンダ−として、
実にエルサレムから西方ロ−マまで、
福音をもって世界をキリストのために征服しながら行進したのであった。
彼の前にも、彼の後にも、
キリストの教会は彼以上にスケールの大きい、革命的使徒を持ったことはなかった。
しかし、たとえそうであったとしても、われらは失望してはならない。
ぜなら、神はこの終末時代に今一度、春の雨を約束されているからである。
「あなたがたは春の雨のときに、雨を主に請い求めよ。」(ゼカリヤ書10・1)
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈りの霊とを注ぐ
彼らはその刺した者(キリスト)を見る時、
ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、
ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ書12・10)
この終末における春の雨、後の雨の傾注は、
こに示されているごとく、
イスラエル民族が民族的に回心し、
聖霊を受け真に選ばれたもの、
メシヤの民、人類に対して祭司の民となるためのものである。
「春の雨の時には、雨を主に請い求めよ。」
今はまさにこの時なのである。
今こそ全群を挙げて、イスラエル民族の救いのために祈るべき時である。
十四万四千人のイスラエル人が、
残りなく生ける神の印をもって印されるまで(ヨハネ黙示録7・2〜4)。
「シオンの義が
朝日の輝きのようにあらわれいで、
エルサレムの救いが燃えるたいまつの様になるまで、
わたしはシオンのために黙せず、
エルサレムのために休まない。
主がエルサレムを堅く立てて、
全地に誉を得させられるまで、
お休みにならぬようにせよ。」(イザヤ書62・1、7)