天地万物の創造者なるキリストが、
カルバリー山上の十字架に上げられ給うたとき、
大空は暗闇(くらやみ)となり雷鳴とどろき、
にわかに大嵐となり昼は夜のごとく大自然は急変した。
霊的暗黒の人間達が万物の創造主を否み、
十字架につけしことに対する被造物の怒りである。

キリストの十字架は、神の人類救済のみ業における頂点である。
ここに焦点を合わせ信仰の眼差(まなざ)しを向けよう。
御承知のごとく神は人類を創造するにあたり、
ご自身に象(かたど)りて
神の像(かたち)のごとく人を創造されたのである(創世記1・26〜27)。
それゆえ、人間こそは全被造物中、最高の傑作であった。
最初の人アダムは無限罪の人間として創造され、
罪を犯さない可能性と、したがって不死の可能性とを与えられていたのである。
神はまた、人間の尊厳として自由意志を与えられた。
それゆえ、自由意志の行使こそは、人間の権利であり同時に責任でもあった。
人間が罪を犯すか犯さないかは、人間の自由意志に委ねられたのである。
もし人間が神を崇め、
神のことばに従い生命の木(十字架のキリスト)にゆき、
永遠のいのちそのものを拝領するなら、
神のいのちに永遠に生き、
もし善悪を知る木にゆき、これを食らうとき、必ず死ぬべき運命にあった。
(その意味において、人間は罪を犯す可能性と、死ぬ可能性を持っていたのである。)
邪悪の権化(ごんげ)であるサタンは、
神に敵対する共犯者を得、永遠の滅亡(ほろび)への道連れを得んために、
巧妙なる策略をもって人祖を誘惑し、
善用すべき自由意志を悪用せしめ、
罪を犯させることによって原罪を人の心に宿さしめ、
人類に霊魂の死と肉体の死とをもたらしたのである。
原罪の内在は人間性を腐敗・堕落せしめ、人間性に致命傷を与えたのである。
かくして原罪は、霊的遺伝の法則によりすべての人類に及び、
サタンは全人類を罪の奴隷としたのである。
(もし人間(アダム)が自由意志を善用し、
サタンの誘惑に対して拒否権を行使するかぎり、
サタンといえども罪を犯させることは不可能であり、
人間は罪を犯さず、したがって死もまた来ることはなかったのである。
アダムとはヘブル語で人間の意である。)
人間のうちに原罪が宿った結果、
人間にどのような変化が起こったであろうか、それを知ることは極めて大切である。
大使徒パウロの偉大さは、まず自分自身の人格の核心に、
原罪の現存を発見したことにある。
「わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、
かえって自分の憎む事をしているからである。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、
わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、
わたしのうちに宿っている罪である」(ローマの信徒への手紙7・15〜17)と言っている通りである。
まことに原罪は人間の霊魂に致命傷を与え、
霊魂の能力を無力化し、肉体にも死を来たらしめることとなった。
では、原罪とは何ものなのであろうか。
それはサタンの種であり、サタンの性質そのものである。
それは人間に永遠の死をもたらす恐るべき霊的癌(がん)である。
したがって、人間はサタンの性質である原罪をうちに持つことによって、
習慣的に常習的に罪を犯すものとなり、
神のかたちに創造されし人間がサタンの本質を持つことによって、
人間のサタン化がここに始まったのである。
聖にして義なる全能の神は、
ご自身の像(かたち)に似せて創造された被造物の最高傑作である人間の堕落、
滅亡、サタン化を、放任しておくことはできなかった。
愛そのものにまします神は、人間のこの惨状を黙視し給うことができず、
人間には救いの手を、
原罪の創作者であり、死の創造者であるサタンに対しては、
決定的刑罰をもってのぞまれるために、
非常手段をとられ、
経綸の時満つるに及び、キリストによる賛嘆すべき救いのみ業を、
十字架の木によって成就されたのである。
〜キリストの死とその意味するもの〜
人祖アダムが不従順によって、善悪を知る木によって失敗したものを、
キリストは従順によって、
十字架の木によって回復せんために、
自ら十字架を負い十字架に上げられ給うたのである。
十字架によるキリストの死は万民の罪の贖いのためである。
キリストの死は、すべて彼を信ずる者に永遠の生命を賦与するためであり、
かつまた、自ら死をもって死の権力者であるサタンにとどめを刺し、
黄泉(よみ)にまで降(くだ)り給うたのは、
黄泉(よみ)の力を破壊するためにほかならなかった(ヘブライ人への手紙2・14〜15)。
かくして人類を死の奴隷の生涯より解放せんためであった。
不死のものであるロゴスが、
死の可能性をもつ人性をとられし理由が、ここにもあるのである。
不信仰な理屈屋は、もし神が全知であるなら、始めよりサタンの誘惑に打ち勝ち、
罪を犯さない不死の人間をなぜ創造しなかったのか、と質問する。
主イエス・キリストは、この問題に対して、御自ら回答されたのである。
ロゴスが人性をとることによって、
われわれと全く等しい人間となり、
われらの人間性といささかも変わるところのないイエスは、
疲れ飢え渇き悲しみ、苦しみ泣くほど、弱いものとなられたのである。
40日40夜にわたって断食し、
サタンのあらゆる誘惑、試みを受けられたのであったが、
自由意志によってすべての誘惑を断固として拒否されたのである。
第一のアダムが征服されたその同じ人間性をもって、
正々堂々とサタンに立ち向かって戦い、圧倒的勝利をとられたのであった。
イエス・キリストにおける勝利の秘訣は、
自由意志を神の意思と一致せしめ、
自由意志を正しく行使することによってサタンに勝利された点にある。
イエスはその公生涯のスタ−トにおいて、
荒野におけるサタンとの緒戦に、輝かしい勝利を獲得されたが、
その最終ラウンドはカルバリー山上において行われた。
そのときイエスは、ご自身の神性によってではなく、
どこまでも人性をもって堂々とサタンに挑戦されたのであった。
高慢なサタンは、イエスが人間性の実体をまとっておられしゆえに、
くみしやすい敵とみなし、最も残酷な方法でイエスを死に至らせようと計画し、
イエスの弟子であるイスカリオテのユダを三十銀で誘惑し、
この裏切者によってイエスを敵の手に渡すことに成功したのである。
サタンはさらに、不信なユダヤ人達、残酷非道のローマ人達を巧みに煽動(せんどう)し、
イエス・キリストを十字架につけることに成功したのであった。
イエスが十字架上で
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と叫び、
ついに息絶え給うたとき、サタンは自己の完全な勝利を確信して疑わなかった。
しかし、そこにこそ神のはかりしれない奥義の計画が秘められていたのである。
真の神であり真の人なるイエス・キリストの御宝血が、
十字架上の祭壇で最後の一滴までも流し尽くされたとき、
人類のすべての罪の負債が完全に支払われたのであり、
完全に贖われたのであり、
キリストは死をもって、
死の権力者であるサタンの頭を砕き、
罪と死の鎖に縛られていた人類を、みごとに事実上解放されたのである。
イエス・キリストの屍(かばね)は、
ニコデモやアリマタヤのヨセフ達の手によって十字架よりおろされ、
油をぬり丁重に墓の中に葬られたのであった。
この現実をまのあたり見た人々の中で、
だれひとりとしてキリストの復活を信ずる者はいなかった。
あれほどキリストが、人の子は苦難を受け、殺され、
三日目に死よりよみがえる預言されたにもかかわらず(マタイ16・21)時は刻々流転する。一粒の麦が地に落ち適当な温度と湿度を受けるとき、やがて内的生命は発芽する。
主イエス・キリストのうちには死人を甦(よみがえ)らしめる神性の大生命が充満されていた。タイムウォッチのごとく三日目に復活が仕掛けられていたのである。
三日目の朝まだき東天に黎明のきざしのさしそめる頃、
万物が未だ静寂のうちに眠っていたその時、
がぜん地震が起こった瞬間、
イエス・キリストは、預言されしごとく死人の中よりみごとに復活されたのである。
イエス・キリストは死人の中よりの復活により、
ご自身の神性を鮮やかに証明し、
まことにご自身こそよみがえりでありいのちであること、
真のいのちが死を征服したことを啓示されたのである。
「もしイエスを死人の間から生かされたかたみ霊
あなたがたのうちに宿っておられるならば、
キリスト・イエスを死人の間から生き返らせたかたは、
あなたがたの死ぬべきからだをも、
あなたがたのうちに宿られる
み霊によって、
いのちに返してくださるのです。」(ローマの信徒への手紙8・11、詳訳)
イエス・キリストを死人の中より復活せしめた原動力は、
イエス・キリストのうちに充満していた永遠のいのち、
復活のいのち、神性そのものにほかならなかった。
その同一のみ霊がまた、われわれをも復活せしめるのである。
イエスは言われた、「私(自身)が復活であり、いのちである。
私を信ずる者は、たとえ死ぬことはあっても、必ず生きる。
生きていて私を信ずる者はみな〔事実上〕決して死ぬことはない。
あなたはこれを信ずるか。」(ヨハネ11・25〜26、詳訳)
イエス・キリストは真の人間であったればこそ、
十字架にかかり死に給うたのであり、
真の神であり永遠のいのちそのものであられたればこそ、
死人の中からみごとに復活されたのである。