「初めに〔天地の初めに、すでに〕ことば〔キリスト〕がおられた。 ことばは神とともにおられた。 ことばは神ご自身であられた。 このかたは初めに神とともにおられた。 すべてのものは彼によってつくられた。 存在しているもので、彼によらないでつくられたものは何一つない。 彼にいのちがあった。 そのいのちは人の光であった。(ヨハネ1・1〜4、詳訳) |
「さて、ことば〔キリスト〕は肉<人間、人間性を持つ者>となり、 私たちの間に幕屋を張られた。 私たちは彼の栄光を〔実際に〕見た。 それはひとり子がその父から受けるような栄光であって、 恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネ1・14) |
「だれもまだ神を見たことはない。 ただひとりの比類のないみ子、ひとり子の神、み父のふところにおられるかた、 そのかたが神を現された<啓示された、目に見えるように現された>。」(ヨハネ1・18) |
本日のメッセージの主題は「ロゴスの受肉とその意味するもの」である。 アウグスチヌスは、 「神が人となり給いしは、人を(ある意味において)神とせんためである」と言った。 この短い一語の中に、福音の奥義と受肉の奥義が要約されている。 ロゴスが受肉されたという神秘は、神が人間に変化されたということではなく、 ご自身の神性を保有しながら、 われわれと同じ人間性の実体をとられたことを意味している。 それゆえに、キリストは 神性の本質と、人間性の本質、つまり二つの本性を完全に所有されていたので、 真の神であられるとともに、真の人間であられたのである。 |
では、なぜ神が受肉し真の人間とならねばならなかったのか。 それは、見えない神が見えるものとなるために、 苦しみ得ないものが苦しみえるものとなり、 不死のものが人類の罪のために身代わりとなり死ぬことができるものとなるために、 神の受肉が絶対に必要であったからである。 |
いかにしてロゴスが受肉し得たかに関して、聖書は極めて簡単に、次のごとくしるしている。「聖霊があなたに臨み、いとも高い方の力があなたをおおいます。 それゆえに、あなたから生まれる聖なるかたは、 神のみ子と呼ばれます」(ルカ1・35、詳訳)と。 |
永遠のはじめに御父より(母なくして)生まれ給うた神である神のみ子が、 聖霊によって童貞女マリヤの胎内に宿り、(父なくして)受肉し生まれ給うたのである。 それゆえイエス・キリストは、 我らのごとく生まれながらに原罪を持って生まれることはなかった。 |
かくしてロゴスは受肉され、われわれと同じ人間性をとり、 その交換としてわれわれにご自身の神性を賦与(ふよ)されるのである。 神性と人性との交換は、人類にとりいかに大いなる恩寵であろう。 その神性に参与するための必要条件とは、イエスの神性とメシヤ性に対する信仰である。 |
「初めにことば(ロゴス)がおられた。 ことばは神とともにおられた。 ことばは神ご自身であられた。」(ヨハネ1・1、詳訳) |
この一節のみことば新約聖書中最も重大なものである。 ここにキリストの先在、父との一体性、その神性が明確に啓示されているからである。 |
ロゴスは永遠の先在者であり、 父と永遠に不可分的に一体なる方であり、 それゆえ父と唯一の神性を共有する神ご自身であられるのである。 |
異端者は、ただキリストの人性のみを見てその神性を否定する。 またある者達は、人間性の肉体を、罪そのものと考えているゆえに、 神が受肉することはあり得ない、キリストは神性のみである、と説く一派もあったが、 それらは共に異端と断言せざるを得ないのである。 |
聖書の啓示に従えば、 父と子と聖霊は三つの位格(ペルソナ)の存在を示しており、 三つのペルソナは唯一の神性を共有する一つの神なることを啓示している。 |
それゆえ、三位(さんみ)は永遠に不可分的に一体であり、 一つの実体であり、 永遠性においても、全能、愛においてもわかたれることはない。 それゆえ、三位はおのおの異なる神性を有していると考えてもならないし、 後先(あとさき)大小の区別をつけてもならないのである。 |
また父が受肉して生まれたものが御子であり、御子が復活して聖霊となったと考えることも聖書的ではない。 なぜなら、神性は永遠不変であり、変化し得ないものであるからである。 したがって、ロゴスが受肉して人間性をとられても、 神が人間に変化したのではなく、 ロゴスは神性を失うことなく、 またいささかも神性に傷をつけることもなく、 完全に神性を保有しながら人性をとられたのである。 |
御父は御子のうちに、御子は御父のうちに永遠に不可分的に存在し、 それゆえに全く一体なのである。 かりそめにもある人々のごとく、御子は御父と比較して劣るとか、 欠くるところがあるがごとくに思ってはならない。 御子は神性の円満具有欠くところなき御者にましますからである。 |
ロゴスは実に永遠の実在、 自らの存在を自らのうちにもつところの存在それ自身、 父と一体、万物の創造者、永遠のいのちそのものにましますのである。 |
永遠の先在者であり、父と聖霊とともに一つの神性を共有し、 全く父と等しい真の神である御子が、 処女マリヤの胎内に宿り、人性をとって生まれ、しもべの姿をとられ、 人の肉の目には人間性のみのごとく見えても、 それは人性のベールによってその神性の栄光がおおわれ、 隠されていたからにほかならない。 |
主イエス・キリストが誕生されたとき、三人の東方の博士達は、 三つの献げものによって、 自分達が生まれ給うたみどり子イエスをいかに信じているかを告白したのである。 黄金・・・・によって王の王なる主ご自身として信じていることを、 乳香・・・・によってイエスを大祭司長また祈りと礼拝を受け給うべき主ご自身として信じ、没薬・・・・において、神の小羊としてほうられ給うべき贖罪主(あがないぬし)ご自身として信じたことを示したのである。 |
このみどり子こそ大預言者イザヤが預言した ひとりのみどり子、 大能の神、 とこしえの父、 平和の君であらせられるのである(イザヤ9・5)。 この博士達の信仰告白こそ、イエス・キリストに対する唯一の正統信仰なのである。 |
神が人となり給うたということは、空前絶後のことである。 主イエス・キリストは、神が神であらねばならぬ神性の本質を完全に所有しながら、 また人間が人間であるために持たねばならない人間性を完全に所有し、 真の人間となられたのである。 |
ロゴスなる神が処女マリヤより人性をとり給うたのは、 人類にその交換としてご自身の神性を賦与することを目指していたのである。 |
この神性と人性との交換は、あたかも金貨と銅貨の交換のごとくである。 普通交換は一対一で行うものである。 キリストは処女マリヤより人性をとられたが、 ご自身の神性とメシヤ性を信ずる者に、 御名によって永遠の生命を与え給う(ヨハネ20・31) かくして両者が一致結合して一体となる。 「この奥義は大きい。 それは、キリストと教会とをさしている」(エフェソの信徒への手紙5・32) |
「だれもまだ神を見たことはない。 ただひとりの比類のないみ子、 ひとり子の神、 み父のふところにおられるかた、 そのかたが神を現された <啓示された、目に見えるように現わされた>。(ヨハネ1・18、詳訳) |
あるがままの神を完全に見たものはひとりもいない。 それゆえ、見えない神は見えるものとなるために受肉されたのである。 御子は御父の全存在を、実体的に残りなく受けられたのである。 それであればこそ、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)、 また「わたしを見たものは、父を見たのである」(ヨハネ14・9)とも言われたのである。 |
イエス・キリストの比類のないユニ−クさは、 真の神であるとともに、真の人間であることにある。 イエス・キリストのみ顔にこそ、神の顔が実に鮮やかに啓示されているのである。 それゆえに、イエスはその人性において、神にいたる唯一の道であり、 その神性において終極、神ご自身なのである。 |