わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを誓い、
またわたしを恐れる恐れを彼らの心に置いて、わたしを離れることのないようにしよう。
わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、
真実をもって彼らをこの地に植える。」(エレミヤ書32・40〜41)
万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、
これらの証書すなわち、この買収証書の封印したものと、封印のない写しを取り、
これを土の器に入れて、長く保存せよ。(エレミヤ書32・14)
わたしが神との出会いを体験したのは、1938年1月9日のことであり、
それはくしくもイスラエル独立の10年前のことである。
このことを語るのは、わたしのメッセ−ジ、わたしの平和運動が、
単なる人間的な動機から出たものではなく、
神よりの啓示によるものであることを知っていただきたいからである。
そのときわたしは、主ご自身から、
イスラエルの預言者がそうであったように、直接啓示を受けたのである。
1.イスラエルの国家的回復を祈れ
2.イスラエル民族の、民族的霊的回復を祈れ
3.エルサレムの平和を祈れ、エルサレムの平和こそ、世界平和の基礎である
4.ダビデの子である平和の君、メシヤの来臨を祈れ
以上は私の発想ではなく、全く天来の啓示であり、
それ以来私は、この啓示の実現・成就のためにのみ生き、労し、
今もなお祈り続けているのである。
私は、この使命のために神に捕らえられたのである。
このような啓示、与えられた使命感から、きょう重大な問題のために祈るため、
ここにこの「第二回エルサレムの平和、世界の平和を祈る大会」が開催されたのである。
その重大問題の第一は、ニュースによってご承知のごとく、国連の舞台において、
ある国々からの逆宣伝によって、シオニズム運動が「人種主義、侵略主義」と非難されていることである。
シオニズムの定義とは何かを理解する必要がある。
「侵略主義、植民地主義によって、契約の地である祖国から、
神の都であるシオンから追放され、世界に離散せしめられたユダヤ人、
そのいたるところで迫害され、虐殺され、民族の危機に直面したユダヤ人の、
シオン(心のふるさと)に帰ろうとの悲痛な叫びであり、運動である。」
それは、ユダヤ民族が生き残るためには、祖国に独立国家を持つ以外に道はないとの、歴史的体験の中から生まれた、やむにやまれない運動にほかならない。
もしあの時点において、ユダヤ民族が独立国家を持っていたなら、
ナチスによる六百万人のユダヤ人虐殺の悲劇はなかったのである。
この悲劇こそは、イスラエル民族が経験した、近代における最大の悲劇であった。
ユダヤ民族の救済、その唯一の手段は、かってユダヤ民族の祖国郷土であったその地に、ただちに彼らの国家を再建することであった。
国連は三分の二以上の多数決をもって、イスラエル国の独立を承認し、アメリカもソ連も賛成したのであった(1947年11月29日、国連総会決議)。
かくして、2000年の久しきにわたってユダヤ民族が心に抱き続けた希望は、
1948年5月14日、ついに実現され、イスラエル国は独立を達成したのである。
それはまた、神のことばである聖書の啓示、預言と全く一致するものであり、
それは単なる民族運動、政治運動の次元を超えた、宗教的、人道的、平和運動であり、非難すべき性質のものではない。
しかるに、国連において、ある一部の国々の逆宣伝によって、シオニズムが「侵略主義」の名のもとに非難されているのは、全く逆コースであると言わざるを得ない。
その第二は、エルサレム問題である。
エルサレム問題、すなわちエルサレムをイスラエルから取りあげる運動が、
今や全世界に浸透しつつあることである。
エルサレムは、歴史的にみても、聖書より見ても、いずれの国に所属すべきかは、論議を必要としない明白な問題なのである。
エルサレム問題の重要性は、一つの古い街、イスラエルという一国家の問題ではなく、全世界全人類にとり、極めて重大な問題をはらんでいる点にある。

預言者イザヤ、エゼキエル、ダニエル、ヨエル、ゼカリヤは、
終末時代に異邦人達(世界各国)が、愚かにもエルサレムを持ちあげることによって、
世界の破滅的惨事を招くこととなると、重大な預言・警告を発しているからである。
エルサレムを持ち上げるものは、必ず致命傷を受けるであろう。
事実、過去の歴史がその真実性を雄弁に証明している(ゼカリヤ書12・2〜3)。
シオニズムを、きわめて危険な侵略主義ということばにすりかえ、宣伝にやっきとなっているのは、イスラエルを国連から追放し、エルサレムを持ち上げる口実とするためにほかならないのである。
神の預言者達は口をそろえて、
終末時代に異邦人がエルサレムを持ち上げることに端を発し、
人類は恐るべき終末の戦いへと突入し、
それによって全人類が致命傷を受け、神より審判を受けると叫んでいる。
反シオニズム運動、エルサレムを持ち上げる運動が、この上なく重大問題であるのは、実にこの点においてである。
私は純粋な宗教家であり、聖書の預言の研究家、メシヤの来臨によってもたらされる真の平和の待望者であり、戦争を憎悪し、平和主義と人類愛の立場から、これを叫ばざるを得ないのである。
時は紀元前587年、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲中のことであった。神は預言者エレミヤに、アナトテの土地を買い、その証書を土の中に入れ、長く保存せよと命じたのであった。
エレミヤは命じられしごとくしたのである(エレミヤ書32章)。
この神秘的、象徴的なことがらは、何を意味するのであろうか。
神は言われた。
イスラエルが神との永遠の契約において与えられし約束の地は、
侵略主義によって時には占領されるが、
しかしそれは、歴史の時の流れの中の一時的現象に過ぎず、
この契約証書は永遠の契約であり、永遠に破棄されるものではない。
人の目に見えざる真の現実の世界(神のみ前)においては、
全能者なる神の御手の中に、いささかの変更もなく保管されていると。

このことを語るとき、私は今世紀における最大の発見として、
全世界にセンセーションを巻き起こした、
あの死海文書のことを一言語らざるを得ないのである。
1947年クムラン洞窟(どうくつ)の中に、土の器の中に入れられていた
イザヤ預言書全巻、その他多くの死海文書が発見されたのである。
これは単なる偶然と言うべきものではない。
二千数百年の久しきにわたり、土の器の中に保管されていたものが、
今世紀にいたり奇跡的に日のめを見たのである。
これこそは、まさに時のしるしなのである。
預言者によって語られし
ことばが、白日のもとにおどり出たのである。
この事実こそ、まことに象徴的である。
永い世紀にわたり、預言は封じられたものであり神秘であったが、
今や神の時、終末の時いたり、
ついに預言は全面的に開封され、実現・成就されるときが来たのである。
されば、歴史の流れの中における一時的現象のために動揺(どうよう)することなく、
神を信じ、神のことばを信じ、預言を信ずる者は、
神との永遠の契約の上にかたく立ち、
不動の信仰をもって、預言の成就実現を、
わけてもダビデの子である平和の君なるメシヤの来臨を、熱烈に祈り求めよう。
アーメン、メシヤよ、速やかに来たりませ!