〜聞け イスラエルよ!〜



栄光に輝く王を見る
「あなたの目は麗(うるわ)しく飾った王を見、
遠く広い国を見る。」(イザヤ書33・17)

「定めの祭りの町シオンを見よ。
あなたの目は平和なすまい、
移されることのない幕屋(まくや)エルサレムを見る。」(イザヤ書33・20)

「主はわれわれのさばき主(ぬし)、
主はわれわれのつかさ、
主はわれわれの王であって、われわれを救われる。」(イザヤ書33・22)
主ご自身の尊前に、われらかく集い、この大聖堂を奉献し得たことは、大いなる喜びであり感動である。
本日、イスラエルの大使御夫妻、また日本ユダヤ教団神戸支部より、会長・副会長御夫婦の臨席を賜わりたることは、わたし達の光栄とし、喜びとするところであり、一同に代わり心より厚く感謝の意を表す次第である。
さて、この献堂式のために与えられしメッセージは、
「あなたの目は栄光に輝く王を見る」である。
イザヤは、紀元前740年より約60年間にわたり預言活動を続けし、最も偉大な預言者である。
彼の預言は66章に及ぶものであり、聖書中最大の預言書であるが、
その預言の中心テ−マは、終末におけるイスラエル民族とエルサレムについて見たビジョンにに関するものでる。
イスラエル民族とエルサレムは、常に、神の大経綸、神の救いの計画における主要テーマであることが強調されているのである。
イザヤ預言がきわめて重視されねばならない理由は、
世紀の流れを通じて、世界歴史、国家民族の興亡、重大事件が、
神の選民であるイスラエル民族および、神の都であるべきエルサレムに対して
各国家・民族がどのように出会ったかによって運命づけられ決定されるということにある。イザヤ預言はこの光によって学ぶべきものである。
わが教団が、イスラエル民族とエルサレム問題に関して特別深い関心を持ち、
イスラエル民族のあがない、エルサレムの平和を熱心に祈るのは、
神の啓示によるのである。
イスラエル民族の救いなくして、人類の救いはなく、
エルサレムの平和なくしては、世界に平和のあり得ないことが預言されているからである。されば、エルサレムの平和、世界の恒久的平和は、いかにして実現されるのであろうか。
聖書の啓示は次のとおりである。
「今わたしは起きよう、いま立ち上がろう、いま自らを高くしよう。」(イザヤ書33・10)
「今」ということばが三度くり返されているのは注目に価する。
「今」が三度にわたり連続的に強調されているのは、聖書中ここのみでる。
それは、神の栄光と人類救済の御業が、最高度に発揮される時を示しているのである。
それはほかではない、栄光に輝く王なるメシヤ、平和の君なるメシヤが、
人類の歴史の中に介入される時である。
そのときこそ・・・・・・「あなたの目は麗しく飾った王を見る」のである。
「メシヤよ速やかに来たり給え!」と祈り待ち望んだメシヤを、
目(ま)のあたり見るのである。
それは、平和の君であられるメシヤがエルサレムに帰還される、記念すべき時である。
「平和の基(もとい)」となるべきはずのエルサレムは、
不幸なことに、過去においては、しばしば戦争の原因とさえなったのであった。
それは、預言者エゼキエルがビジョンにおいて見たごとく、
神の現存のしるしであるシエキナの栄光が、エルサレムから去ったからにほかならない。
しかし、喜ぶべきことは、シエキナの栄光は終末時代において
再びエルサレム帰って来ることが預言されていることである。
いつ、シエキナの栄光がエルサレムに帰還するのか。
平和の君であるメシヤ、栄光に輝く王なるメシヤが、
エルサレムに帰還されるその時である。
平和の君であられる栄光のメシヤの来臨、これがイザヤ預言の焦点であり、また頂点でもある。
平和の君であられるメシヤは、いつエルサレムに帰還されるのか、
このテーマこそ代々の預言者、神秘主義カバリスト達、またキリスト教福音主義神学者達が、知り究めようと願ったテーマである。
「あなたの目は麗しく飾った王を見る。」
このすばらしいイザヤ預言の実現・成就を、
目のあたり体験的に見ることができるように、祈り、信じ、期待するものである。
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今は(顔と顔と相合わせて)わたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42・5)
と言うことができるように望むものである。
「あなたの目は、遠く広い国を見る。」
メシヤ王国とは、どんなすばらしい国なのであろうか。
「遠い」とは距離的な意味ではなく、その時間性の永遠なることであり、
「広い」とはその王国の宇宙的なひろがりを意味している。

換言すれば、
人類はメシヤによってあがなわれ、
永遠の生命に参与し、
その王国は永遠に滅びることのない国であることを示しているのである。
メシヤ王国の住民は、ユダヤ人をはじめ、
あらゆる民族の中からメシヤによってあがなわれし義人達の大集団である。
メシヤ王国の政治支配においては、愛(アガペ−)のみが原理である。
20節(イザヤ書33・20)に注目しよう。
「定めの祭りの町シオンを見よ。あなたの目は平和なすまい、移されることのない幕屋エルサレムを見る。」
本章には三つの見るがしるされているが、これは第三のものである。
祭りが復興されたシオン、平和が回復されたエルサレム、もはや移されることのない神殿、新しきエルサレムを見るのである。
御承知のごとく、エルサレムの第一神殿は、紀元前587年、バビロンのネブカデネザルにより破壊され、第二神殿は紀元70年、ローマのティトゥスによって徹底的に破壊されたのであった。
しかし、この終末時代に、あの預言者エゼキエルがビジョンにおいて見た第三神殿、
シエキナの栄光が帰還してとどまった第三の神殿を見るのである。
かくして、イザヤが預言した主(アドナイ)のみことばはみごとに実現・成就を見るのである。
「終りの日に次のことが起こる。
主の家の山は、
もろもろの山のかしらとして堅く立ち、
もろもろの峰よりも高くそびえ、
すべて国はこれに流れてき、
多くの民は来て言う、
『さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家へ行こう。
彼(メシヤ)はその道をわれわれに教えられる、
われわれはその道に歩もうと』と。
律法(りっぽう)はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
彼(メシヤ)はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くのたみのために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。

ヤコブの家よ、
さあ、われわれは主の光に歩もう。」(イザヤ書2・2〜5)