「あなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、
あなたをして、
心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、
こうしてあなたに命を得させられるであろう。」(申命記30・6)

「この言葉はあなたに、
はなはだ近くにあってあなたの口にあり、
またあなたの心にあるから、
あなたはこれを行うことができる。」(申命記30・14)
本日のメッセージの主要テーマは、「心の中の律法(トーラー)」である。
ただ今拝読いたしたみことばは「第二の律法(TORAHトーラー)」と呼ばれ、
申命記30章の心臓部というべき部分なのである。
歴史的な面より言えば、御承知のごとく、
シナイ山において律法を受けし当時の人々はすでにほとんど死に、
モーセとヨシュアとカレブのみとなり、
イスラエルの新しい国民は約束の地を今や眼前に見、カナンの地に突入しようとしていたのである。
この重大時点において、律法を改めて徹底させ、選民としての心の準備を充分にする必要に迫られていたことは申すまでもないことであった。
ここで強調されていることは、単なる律法の暗誦(あんしょう)、知的認識ではなく、
律法の内面化、
つまり律法の文字ではなく、律法の精神そのものが心の深みに浸透し、
融合し徹底することが強調されていることである。
それはシナイ律法よりさらに飛躍し、新契約を指向している点にこそ、注目すべきである。
列王紀下第二十二章において、ヨシヤ王の十八年、神殿修築の際、
大祭司ヒルキヤは永い間見失われていた第二の律法を神殿内において再発見し、
それが導火線となり、
イスラエル民族のうちにすばらしい信仰復興(リバイバル)が起こりしことを録(しる)している。
それらの歴史的事実がこの書の重要性を証明しているのである。
その意味においても、本書の「心の中の律法」は重視されねばならない。
しかし、注意深くつまびらかに学ぶとき、
このすばらしい大理想がイスラエル民族において体験され実現を見るのは、
終末的希望の中においてである。
新契約が啓示するごとく、メシヤとの出会いにより、神の霊が賦与されることにより、
人間の内面が根本的に変化され、
律法の要求である
「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記11・45)
を実現することがはじめて可能となるのである。
人間が聖となるためには、どうしても神の霊を受けねばならず、
神の生命への参与を必要とする。
ユダヤ人の特色、ユダヤ人が「自分はユダヤ人である」と言うとき、
それは「選民」を意味しているのであるが、
そのためには、単に文字と肉体の割礼のみでは充分ではなく、
神の霊による心の割礼こそ絶対に必要なのである。
なぜなら、生ける神の証人、神の栄光を繁栄するものとなるためには、
神と出会い、
神の顔を受けとり、
神のいのちそのものに参与せねばならないからである。
モーセが40日間シナイ山上で主と交わり、
十戒を受けて下山したとき、
彼は神の臨在に輝き、神々(こうごう)しいまでに変容されていた。
律法が人間の精神、心の中の律法(トーラー)となるとき、
人間は神的に変容され得ることを証明したのである。
律法の内面性
新契約という表現は、
キリスト教の神学的概念として受け取っている人が多いようであるが、
それはエレミヤ書31章31節より33節にすでに見いだすことができる。
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。
わたしは彼らの夫(おっと)であったのだが、
彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、
わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」と。
ここに啓示されている新しい契約、
すなわち神の霊が注がれ、
人間のうちに内住し、
律法が人格の最も深いところに印されるとき、
そのとき人間は新創造され、根本的に、徹底的に、本質的に変容されるのである。
詩篇第40篇9節において、
「わたしはみこころを行うことを喜びます。
あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」
とダビデが歌った歓喜のうたを、自分自身のものとして経験するのである。
心の中の律法(トーラー)を体験した者にとっては、
もはや律法はきびしいもの、
苦しいもの、
困難なものではなく、
甘味なものとなるのである。
それはいのちの律法が人間の人格の力となり、
いのちとなり、
愛となり人間そのものを本質的に変容せしめたからにほかならない。
「この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。」
このみことばは、シナイ契約と新契約とは本質的に異なるものであり、
新契約がいかに旧契約にまさるものであるかを印象づけているのである。
なぜなら、律法が人間の外部にある時、その影響感化力はきわめて弱く、
律法が人間の心の中に、その人格の核心に宿るときのみ、
律法はその人にあっていのちとなり、力となることが可能となるからである。
「わたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」とのみことばは、それを鮮やかに示している。
「もし初めの契約(シナイ契約)に欠けたところがなかったなら、あとのもの(新契約)が立てられる余地はなかったであろう。」(ヘブライ人への手紙8・7)
なぜなら、雄牛ややぎの血は、罪(原罪)を除き去ることができないからである。
それゆえ、イエス・キリストは「一つのささげ物(ご自身の血)によって、
きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。」(ヘブライ人への手紙10・14)
ここにこそ、新契約の優越性、完全性が存在するのである。
「主は言われる、
『主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る』と。


主は言われる、
『わたしが彼らと立てる契約(新契約)はこれである。
あなたの上にあるわが霊、
あなたの口においたわが言葉は、
今から後とこしえに、
あなたの口から、
あなたの子らの口から、
あなたの子らの子の口から離れることはない』と。」(イザヤ書59・20〜21)
大預言者イザヤも、かく預言している通りである。
それはまた、エゼキエル預言の中心テ−マでもある。
「わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、
万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。
わたしは清い水をあなたがたに注いで、
すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
わたしは新しい心をあなたがたに与え、
新しい霊をあなたがたの内に授け
あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまた
わが霊をあなたがたのうちに置いて
わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、
わが民となり、わたしはあなたがたの神となる」(エゼキエル書36・24〜28)と。
それゆえ、主なる神はイスラエルに対してこう言われるのである。
「イスラエルの家は、わたしがこのことを彼らのためにするように、
わたしに求めるべきである」と(エゼキエル書36・37)
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。
  ・・・・・・・・・・・・・
主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、
三日目(二千年後)にわたしたちを立たせられる。
わたしたちはみ前で生きる。
わたしたちは主を知ろう、
せつに主を知ること(出会い)を求めよう。
主はあしたの光のように必ず現れいで、
冬の雨のように、わたしたちに臨み、
春の雨のように地を潤(うるお)される。」(ホセア書6・1〜3)