「これはあなたがたが代々会見の幕屋の入り口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭(はんさい)である。
わたしはその場所であなたに会い、あなたと語る。
また、その所でわたしはイスラエルの人々に会う。
幕屋はわたしの栄光によって聖別される。
またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。
わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となる。
わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であることを彼らは知る。
わたしは彼らの神、主である。」(出エジプト記29・42〜46)
この聖書のみことばは、神殿がもつ根源的な意味を、きわめて鮮明に示している。
わたしはその所であなたに会い、あなたと語る。
一語をもって要約すれば、神殿こそは神と人間との出会いの聖なる場所ということにつきるのである。
造物主と被造物との会見の場所、永遠と時間との接触点を指し示している。
神はそこにおいてご自身の現存と栄光を啓示し、
人間は神との人格的出合いの体験によって、
真の神認識に達し、
神は人間の人格の深みに内住し、
その聖なる現存によって、
人間を根本的に聖別し、
人間との親しい交わりを開始されるのである。
真正の宗教の特色は、
本質的に神の現存の体験、
神認識の宗教であり、
神との親しき交わりをもつ宗教なのである。
神の現存の体験こそは、人生の真の目的であり目標である。
それは人間にとって至高の喜び、平安、能力、幸福、全き救いなのである。
まことに神はすべてのすべてなのである。
モーセの時代、神の幕屋が砂漠にあった時代においては、
神の現存のしるしであるシエキナの栄光は、
昼は雲の柱、夜は火の柱のごとく可見的であり、離れることは決してなかった。
主の臨在の栄光が進むとき、イスラエル民族も共に進み、止まれば行進を中止したのであった。
神の現存がある限り、常にイスラエルは安全であった。
しかし、民のうちに罪があるとき、イスラエルは常に敗れたのであった。
聖にして義なる神は、罪と共存することのできない方であられしゆえである。
それによって、神の現存こそはすべてであり、
罪のにくむべきものなることを、ご自身の民に示されたのである。
モーセの死後、その後継者として立てられたヨシュアに導かれ(ヨシュアはヘブル語であり、ギリシャ語のイエスと同義)、
ついにイスラエル民族はあこがれの約束の地に入り、
その後永い世紀を経てダビデ王の時代をを迎え、
ダビデはエルサレムを都と定め、
その子ソロモン王は神殿を建設、完成させたのであった。
ソロモン王が神殿奉献の祈りを捧げたとき、
「天から火が下って燔祭と犠牲を焼き、主の栄光が宮に満ちた。
主の栄光が主の宮に満ちたので、祭司たちは主の宮に、はいることができなかった。
イスラエルの人々はみな火が下ったのを見、また主の栄光が宮に臨んだのを見て、敷石の上で地にひれ伏して拝し、主に感謝していった、
『主は恵みふかく、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。』(歴代下7・1〜3)
このようにして、イスラエルの輝かしい栄光の時代は頂点に達するにいたったのであった。この歴史的な出来事こそは、
メシヤによって実現・成就される、新契約のシンボルであった。
メシヤによって実現される神殿は、
全く新しい意味をもち、神ご自身が人間の中に宿り住み、
人間が生ける神の神殿となることを意味するものである。
新約聖書ヨハネによる福音書1章14節には、きわめて注目すべきことがしるされている。
「言(ことば)は人間性を持つ者となり、私たちの間に幕屋を張られた。
私たちは彼の栄光を〔実際に〕見た。
それはひとり子が父から受けるような栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と(詳訳参照)。
かってのシエキナの栄光そのものが、
ヨシュア(イエス)の人間性の幕屋に充満して宿ったと啓示されているのである。
イエスの人間性は新しい契約の神殿であり、神の現存の完全な場所であり、
神と人間との出会いの幕屋そのものなのである。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と宣言された。
すると弟子のピリポは言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。
そうして下されば、わたしたちは満足します。」
するとイエスは彼に言われた、
「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。


わたしを見たものは、父を見たのである

どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。

わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。
わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。
父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。
もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。」(ヨハネ14・6〜11)
このイエスとピリポとの対話は、きわめて重大であり神秘的である。
このイエスの宣言は、ご自身の神性宣言であり、おん父との一体性の宣言である。
ヨシュア(イエス)の足跡、
その印された
しるし
わざそのものが、全能の神ご自身のしるしであることを、みごとに証明しているのである。
ロゴスはなにゆえ人間性をおとりにならねばならなかったのか。
見えない神が見えるものとなるために、
触り得ない存在が触りうる者となるために、
苦しみ得ないものが、苦しみ得る者となるために、
不死のものが、多くの人々を義とするため、
あがないの犠牲の死を遂げ得る者となるためにこそ、
ロゴスはまことに人間性をおとりになったのである。
インマヌエルの神秘、秘義がここにある。
インマヌエル、これこそ、神殿のまことの、全く新しい意味である。
わたしはここで問題の核心に触れることにいたしたい。
サンヒドリン議員であり、当時の権威者のひとりであったニコデモが、
ヨシュアと出会ったとき言った、
あなたが神のもとから来られたことを知っています<それは確かです>。
というのは、
神がともにおられるのでなければ、
あなたのされるこういう
しるしを行うことはだれにもできません」(ヨハネ3・2、詳訳)と。
ニコデモはヨシュアのうちに神の現存を見たのであり、
インマヌエルの預言が、
現実的にこのひとりの人物において成就されたことを確認したのであった。
神と人間との真の出会いの聖なる神殿、
それはダビデの子であるメシヤにおいて実現されるべきであった。(イザヤ9・5〜6)。
ニコデモは、ヨシュアにおいてその預言がみごとに啓示されている現実に驚きかつ魅了(みりょう)されもしたのである。
ヤコブ(イスラエル)がベテルにおいて夢に見た梯子(はしご)が、
天に達していたごとく、
人間は、ヨシュアの人生を道として、
そのメシヤ性にかけのぼり、
そのメシヤ性を道としてさらにその最奥なる神性にかけのぼり、
生けるまことの神ご自身に出会うのである。
神ご自身との出会いの体験によってこそ、
人間は新生し、魂のうちに革命的変化を経験し、
その瞬間、アブラムはアブラハムに新生し、ヤコブはイスラエルと変容されるのである。
神との全人格的出会いを体験した者は、
神の霊によって新たに生まれ、
神の現存をうちにもち、
すなわち、生ける神の御名を人格の最も深いところに印され、
神ご自身が住み現存される、まことの神殿とされるのである。
これこそは新契約の奥義なのである。(コリントの信徒への手紙一3・16、6・19)
神ご自身が人間のうちに現存され、
人間が神の性質に参与し、
神の生命の浸透を受けるとき、
人間は根本的に本質的に変容するのは当然のことである。
だれでもメシヤに接木され、
神の性質に参与し、
神のいのちそのものに生きるとき、神のいのちの表現となり得るのである。
「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。」(イザヤ書43・7)

神の選民であるユダヤ人も、キリスト者も、他の人々が神に出会い、
神を見いだすための、真の神殿そのものであらねばならないのである。
「万軍の主は、こう仰せられる、
その日には、もろもろの国のことばの民(異邦人)の中から10人の者が、
ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。
神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う。」(ゼカリヤ書8・23)
これこそが選民の本当の姿、あるべき姿なのである。
イスラエルのリーダーシップは、その宗教・霊性においてであらねばならない。
異邦人が、あなた方との出会いにおいてメシヤに出会い、
神に出会うまでに、すなわち、アブラムがアブラ
ムに変容し、
ヤコブがイスラエルに変容したごとくに、まずあなた自身が、
生ける神と出会い、変容しなければならないのである。
選民は、神に対して祭司の民となり、
それゆえ聖なる民となる義務があり(出エジプト記19・6)、
人類に対して「あなたがたは主の祭司ととなえられ、
われわれの神の役者(えきしゃ)と呼ばれる。」(イザヤ書61・6)
すなわち、神には人類を与え、
人類には神ご自身を与えるべき使命をもつものなのである。