平和の三柱 |
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「SHALOM」シャローム、それがわたしのメッセージの主題である。 「シャローム」これこそはイスラエルの、全世界のすべての人が追求しているテーマなのである。 人類は世紀の流れを通じて「シャローム」を追求し続けてきたのであった。 しかるに、不幸にして、いまだに平和を見いだすことができないのが、悲しむべき現実なのである。 |
わたしたちは、毎日少なくとも三度、必ず三つのことを熱心に祈っているのである。 その第一はイェルシャライムの平和、 第二は選民であるイスラエル民族にシャロームがあるように、 第三には平和の君であられるメシヤが一刻も早くおいでになり、世界に真の平和、永遠の平和を樹立してくださるようにと祈るのである。 |
さて、平和のテーマを考えるとき、まず世界人類は、なぜ平和を失ったかを根源的にさかのぼって、その原因を追究する必要がある。ことの原因を見いだすことが、結果を見いだす鍵となるからである。 まず、人類史の中で、いつ、どのようにして平和を喪失(そうしつ)したかは、聖書の創世記第三章にしるされている。 神はご自身の似姿として、霊と知性と自由と愛とを与えて人間を創造され、 その時点においては神と人間との間に平和があり、 すばらしい交わりと幸福の充満とがあったと。 しかるにある瞬間、人間は与えられた自由意志を濫用して神に背き、 ついに神との平和を喪失したのであった。 |
神との平和を失った人間は、同時にまた他者との平和を失い、かくして平和であった地上は、争いの場に変わったのである。 人間が平和の神を見失い、 原罪が人間の心に宿った瞬間から、平和を失ったのである。 |
神と人間との間に平和が失われた時、夫と妻との間の平和も失われた。 神がアダムに罪の責任を追及された時、 アダムはそれを妻のエバの責任に転嫁し、それが人類史における夫婦げんかの始まりとなった。 又、カインとアベルの間に、兄弟げんかが始まり、カインはついに弟を殺すに至ったのである。これが人類史における最初の殺人事件である。 |
以来、人類の歴史はまことに闘争と戦争の歴史となり、それがエスカレートして、今日、ついに恐怖の核時代を到来せしめたのである。 人類はこの恐るべき闘争と戦争の歴史の中で、平和を真剣に追求し始め、国連という機関をつくりだしたのである。 しかるに、全世界が期待したところの国連も、今日平和をつくり得ない現状にある。 |
それは、大国のエゴイズム、極端なイデオロギー、片寄った民族主義などによって、 愛と公平、正義が無視され、自己の利益のみを追求し、 平和をつくり出す真剣な努力が続けられていないからである。 |
平和は武力の均衡によってのみ保たれると公然と主張し、不幸なことに、その考え方によって軍備拡張をエスカレートさせているのが現状である。 平和は決して武力でつくり出せるものではない。 平和は人間の心の問題である。 平和は平和の精神、平和の思想によってのみ創造されるものだからである。 |
聖書はこのテーマに対して、極めて明快な回答を与えているのである。 平和の神を見失った人間が、 再び神に立ち返り、 平和の神との出会いを体験し、 人間が自己の意志を放棄し、 平和の神の意思を抱きしめ、 神の意思と一致することにおいて、 それは実現成就すると約束しているのである。 |
平和への根本的解決 |
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その第一は、人間の心における平和の確立である。 御承知のごとく、イスラエル民族は永い世紀にわたって、 神との平和を求め、自己の罪をあがなうために神殿に詣(もう)で、 そこにおいて犠牲の子羊を献げ、その小羊の血によって罪はあがなわれ、 神との間に再び平和が回復されたのであった。 神と人間との間の平和を回復するものは、罪をあがなう小羊の血である。 |
この旧約における儀式は新契約の象徴であり、 メシヤこそは、 神と人間との間に永遠の平和を確立する救い主であることを啓示している。 |
偉大な預言者イザヤは、平和の君に関して次のように語っている。 「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、 ひとりの男の子がわれわれに与えられた。 まつりごとはその肩にあり、 その名は、『霊妙な義士、大能の神、 とこしえの父、平和の君』ととなえられる。 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、 ダビデの位に座して、その国を治め、 今より後、とこしえに公平と正義とをもって これを立て、これを保たれる。 万軍の主(アドナイ)の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ書9・5〜6) |
このひとりのみどりご、ひとりの男の子は単なる人間ではなく、 極めて神秘的な人物であることを啓示している。 彼の肩にこそ平和の使者の使命が負わしめられているのであり、 この方によってこそ、世界に真の恒久的平和が建設されるのであると。 |
イザヤ預言の中で、この預言は最も注目に値する重大なものである。 一般論よりすれば、神は霊であり、人間になり得ないと言う考え方が支配的である。 しかるにこの聖書のみことば、神が人間になり得る可能性を示しているからである。 ここに啓示されているひとりの人物は、 外見的には人間性、つまり人間の姿を持って出現されるが、 本性的には全能の神であり、 人間の歴史の中に、時空の中に介入される存在であるが、 それでありながら時空を超越した永遠の実在であられ、 彼には始めもなく終りもない、真実在であると啓示されているのである。 |
しかして、この方こそ平和の君ととなえられ、 全人類の期待と熱望とに応(こた)え、 世界に真の平和をもたらす、唯一の方なのである。 彼こそはダビデの位に座すところの、メシヤご自身なのであると預言されているのである。ここに メシヤの人間性 メシヤの神性 メシヤのメシヤ性 が鮮やかに啓示されているのである。 |
人間のいかなる熱心も努力も、 今日まで、残念ながら平和というに真に値する平和を創造することは不可能であった。 この終末時代、人類が有史以来最も危機に直面しているこの時、 真の永遠の平和を創造しえる御者は、聖書が啓示する平和の君のみである。 |
イザヤは、その預言の第二章に、平和に関するすばらしい預言をしているのである。 「終りの日に次のことが起こる。 主の家の山は、 もろもろの山のかしらとして堅く立ち、 もろもろの峰よりも高くそびえ、 すべて国はこれに流れてき、 多くの民は来て言う、 『さあ、われわれは主の山に登り、 ヤコブの神の家へ行こう。 彼(メシヤ)はその道をわれわれに教えられる、 われわれはその道に歩もう』と。 律法はシオンから出、 主の言葉はエルサレムから出るからである。 彼はもろもろの国の間にさばきを行い、 多くの民のために仲裁に立たれる。 こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、 そのやりを打ちかえて、かまとし、 国は国に向かって、つるぎをあげず、 彼らはもはや戦いのことを学ばない。 ヤコブの家よ、 さあ、われわれは主の光に歩もう。」(イザヤ書2・2〜5) |
以上は、イザヤが神によって啓示され、見せられたビジョンなのである。 このビジョン、平和の大理想が実現される為に、 「ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう」と彼はイスラエル民族に呼びかけているのである。 今日的表現をもってすれば、「神の民よ、さあ、われわれは異邦人世界のごとく、政治軍事路線によってではなく、 神の啓示による信仰路線によって、 平和実現の大理想に向かって前進しようではないか」と言っているのである。 |
まことに、この預言において啓示されているごとく、 イスラエルのリーダーシップは、その宗教的啓示の光にこそあらねばならない。 イスラエル民族はよろしく神の啓示の光に従い、 平和の旗手となり、 神の国の建設、 平和の大理想実現のためにこそ、リーダーシップをとるべきであるとの意味である。 これこそは終末時代にイスラエル民族に課せられた使命なのである。 |
そうすることによって、万国は川の流れのごとく、それに合流するであろう。 これは決して夢物語ではなく、終末時代に必ず主によって実現される預言なのである。 |
平和の君であられるメシヤの来臨によって、 平和の律法がシオンより発布され、 神の平和のメッセージがイェルシャライムから出るとき、 その時こそ永遠の平和が到来するのである。 |
人類の歴史の中で、ユダヤ民族ほど受難を経験した民族はほかに絶対にない。 それゆえにこそイスラエル民族は、平和への旗手とならねばならないのである。 イェルシャライムは平和の基礎となり、 世界平和のセンターとなるべき使命を持つ、選ばれし場所なのである。 |
最後に、平和そのものを創造し、平和をこの地上に建設する御者は、 申すまでもなく平和の君であられるメシヤご自身である。 メシヤは人間を罪よりあがない、 平和の精神そのものを人間の心の最奥に置き、 人間をしてメシヤの心を心となさしめ、 人間を愛に変容せしめる事によって、 完全軍備撤廃のイザヤの預言を、みごとに実現・成就するのである。 武力革命や暴力、核兵器によっては決して平和を創造することは不可能である。 |
それゆえ、今こそ神の民も異邦人も、心を一つにしてメシヤご自身を求むべきである。 1.平和の基(もとい)イェルシャライムの平和 2.シャロームの民イスラエル民族の新生 3.平和の君メシヤの来臨 これこそは、平和の三柱なのである。 聖書が啓示する世界平和解決の鍵(キイ)はこれである。 |