「彼(キリスト)が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。 そのまことの御姿を見るからである。(ヨハネの手紙一3・2) |
使徒ヨハネは観想家・神秘家のモデルとみなされている。 彼が最も愛においてキリストに似た聖人であったことは、万人の等しく認めるところである。 雷の子といわれし激情の人物が、 愛に変容しキリストに全く変容したというこの現実は、 わたしたちにとり、まことにインスピレ-ションである。 |
では、何が彼をしてかくもみごとに、キリストへの変容を可能にしたのか、 それは言うまでもなく、彼のうちにいますキリストご自身にほかならない。 しかし、それのみではない。ヨハネ自身が抱き続けた望みにもよるのである。 |
「彼についてこの望みをいだいている者は皆、 彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(ヨハネの手紙一3・3) このみことばが、それを物語っている。 |
「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、 その人自身も歩くべきである。」(ヨハネの手紙一2・6) |
「神は愛なり。 愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きている。」(ヨハネの手紙一4・16~17) |
「自分たちが彼に似るものとなることを知っている。」(ヨハネの手紙一3・2) |
ヨハネ神学の中心テ-マは、キリストへの変容なのである。 ヨハネはその清澄な鷲(わし)の眼差しのもとに、 神がおん子を与える愛が、その目的が何かを見抜いたのである。 人間の神化、キリストへの変容であることを。 |
それであるなら、可能な限り完全にキリストに変容することこそ、 神に対する、また師であるキリストに対する、 愛の返礼であり、義務であると確信し、この一事に徹し専念したのである。 キリストに似たものとなる、 そのためには、キリストのいのちに生き、 キリストが歩かれたように、そのみ足跡を歩むことに専念せねばならない。 この絶え間ないキリストへの変容の憧(あこが)れ、 日々の霊的生活におけるキリストのまねびが、 ついに彼をして、あそこまで完全にキリストに変容せしめることを可能にしたのである。 |
聖人となる。キリストに変容する。 言うは容易であるが、そのための霊的生活は生(なま)やさしいものではない。 |
大切なことは、きょう、まずあなたの心に思想の変化を与えることである。 「わたしのようなものは、とうてい聖人になれない。キリストへの変容は高嶺の花。」否! |
雷の子ヨハネが愛の大聖人となり、 ベルナルドの子フランシスコが、 あれほどまで内的にも外的にも全くキリストにあやかり得たのであるなら、 恩寵によって不可能はない。 わたしもきょうから神に没頭するなら、必ずキリストに似るものとなることを確信すること。 この聖なる望みを、 最後まで、しかり、主イエス・キリストの栄光の顕現、御再臨のそのときまで、 固く抱き続けることこそ必要なのである。 |