「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1・1)
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、
すなわち、いのちの言(ロゴス)について−−−
このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、
かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。
この永遠のいのちは、父と共にいましたが、
今やわたしたちに現れたものである。」(ヨハネの手紙一1・1〜2)
「その名は『神の言(ロゴス)』と呼ばれた。」(黙示録19・13)
その結果、
「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、
耳しいは聞こえ、死人は生きかえり」(マタイ11・5)
という
しるしと奇跡が次々に起こり、
全満州に一大センセ−ションを巻き起こす、すばらしいリバイバルが起こったのである。
それは、まさしく続・使徒行伝であり、内住されしキリストご自身のなされし奇跡にほかならない。
全世界に、キリスト教を伝える人はまことに多くある。
しかし、キリストご自身を伝える人、
御名の啓示者、ロゴスの携帯者は、必ずしも多くはないのである。
まして、イスラエル人の前に御名を啓示し得る者は、まことに悲しくも、まれである。
神ご実体そのものであるロゴス、
そのロゴスが、人間の人格の最深部、核心に内住すること、
換言すれば、ロゴスの受胎(じゅたい)によってこそ、
人は真に神の性質に参与するのであり、
その神的生命そのものに生きることによって、
まことに聖化され、キリストご自身に変容し、神化され、
ついに、ある意味において神となるのである。
この奥義はきわめて深遠(しんえん)であり、偉大でもある。
それは、「この言(ロゴス)に命(ゾ−エ−)がある」(ヨハネ1・4)からにほかならない。