~聖なる道~



第16日 キリストと共に神のうちに
「あなたがたのいのちは、
キリストと共に神のうちに隠されているのである。
わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、
あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れる。」(コロサイの信徒への手紙3・3~4)
霊的生活とは、キリストと共に神のうちに隠れる生活のことである。
キリストの生活は父のふところに隠れた生活(ヨハネ1・18)であった。
キリストの如く、目に見えるように、神ご自身を全存在において啓示したいと望むなら、
どうしてもキリストと共に、神のうちにかくれなければならない。
隠れた生活には二面がある。
その第一は、すべての人の目から逃れて、キリストご自身に密着することである。

使徒パウロの表現によれば、
「十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤの信徒への手紙6・14)
地上的名誉、あらゆる地上的野心に徹底的に死んだのである。
神に生きるためには、
どうしても、キリストと共にまず十字架につけられ、
霊的死を深く体験しなければならない。
ダビデもかく歌っている。

「わが魂はもだしてただ神をまつ。
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わが救いとわが誉とは神にある。
神はわが力の岩、わが避け所である。
民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。
そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。」(詩篇62・6~9)
その第二は、
神のうちに深く没入し、神に見入り、神にすべてを集中し、
ついに神を自己のすべてとすること、これである。
フランシスコのあの生き方を学ぶことである。
フランシスコの心に湧き起こったキリストへの愛は、
あまりにも熱烈であったので、
そのときからキリストに似たものとなること、
できるかぎり完全にキリストにならうこと、
キリストと全く一つになり、
キリストにそっくりあやかること、
これが彼の最高の望みとなったのである。
霊的な人、聖人に憧(あこが)れる人の特徴は、神のうちに隠れた生活に専念することにある。
使徒ヨハネも、神秘的生活の秘訣を公開してかく言っている。
「それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。
わたしたちの交わりとは、
父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」(ヨハネの手紙一1・3)
雷の子と言われた激情の人ヨハネが、
愛において全くキリストに変容されるに至ったのは、
彼がキリストのふところの中に、生涯指定席を取り続けたことによるのである。
キリストのふところこそは、
間違いなく聖人になる、
キリストにそっくりあやかり得る、霊的生活の最高のグリ-ン指定席である。
このグリ-ン指定席を獲得するためには、
すべてを犠牲にするとも、決して損にはならないであろう。