~聖なる道~



第8日 わたしの契約
「イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
『取って食べよ、これはわたしのからだである。』
また杯を取り、感謝して彼らに与えれ言われた、
『みな、この杯から飲め。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、
多くの人のために流すわたしの契約の血である。』」(マタイ26・26~28)
主イエス・キリストが、その地上生涯の最後の晩餐(ばんさん)において、
愛する弟子達に与え給うたものは、
実にご自身のからだ、
ご自身の血そのものにほかならなかった。
そして、それこそは、新契約の奥義の核心なのである。
このキリストご自身のことば、行為のうちに、
ご自身を残りなく与え尽くす、愛の極みを見ることができる。
それによってキリストは、
その死によって
われわれにご自身のいのちを与えるものであることを表明されたのである。
新契約の小羊であるキリストを排食することによって、
キリストのいのちにわたしたちが生きるためである。
それはまた、キリストご自身がわれわれの内に宿り、
わたしたちにあって、今を生きるためである。
「わたし」という主のことばには、単にわたしという以上の意味がある。
すなわち、「
わたしは有って有る者」(出エジプト3・14)との御名が啓示されているのである。
イエスと出会い、真の過越しの小羊であるキリストを拝食することによって、
すなわち御名によって、神ご自身を宿し奉るのである。
かくしてこそ、まことにイエスによって、
キリストのいのちに生き、神のために生きる者とされるのである。
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
との体験を自分自身のものとするのである。
自然界においては、人間がパンを食うと、数時間後には完全に消化され、
やがて、それはその人の血となり肉に変化する。
霊界においては、命のパンなるキリスト(ヨハネ6・48)を拝食するとき、
霊魂は、キリストを自分自身に変化させるのではなく、
キリストのいのちのくまなき浸透(しんとう)を受け、
次第にキリストに変容されてゆくのである。
ああ、聖にして神秘なる晩餐よ!
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、
永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせる。
・・・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。

生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・54~57)
まことにキリストを拝食し、
神的生命への参与によって、わたしたちはもうひとりのキリスト、
しかり、キリストの地上生涯の再現・延長とされるのである。