~聖なる道~



第6日 わたしにあるものをあげよう
「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒言行録3・6)
「活動は生命を前提とする。
生命力が豊かであればある程、偉大な事業をたやすくなし遂げる。
使徒職は観想の溢(あふ)れでなければならない。
使徒職は神との一致の成果である。
使徒的活動は、観想生活から生まれる。
それは観想のいわば外的表示である。」(使徒職の炎より)
もし燃料(ガソリン)を満載(まんさい)することなくして、
荒野の長距離ドライブを計画するなら、無謀の謗(そし)りを受け、
狂気の沙汰(さた)と嘲笑されるであろう。
それであるなら、聖霊の充満を受けずして、
外的活動、宣教事業に出て行く者を、なんと言うべきであろうか。
「わたしにあるものをあげよう。イエス・キリストの名によって歩きなさい。
人は自分の持っているものしか与えない。よし持っている量しか与え得ないのである。
使徒職において与えるもの、それは金ではなく神である。
「神の霊の伝達、
すなわち、人々に聖霊を得させ、
人々を聖霊に支配されたものにすることを使命としたこの霊的奉仕」(コリントの信徒への手紙二3・8、詳訳)においては、
聖霊の充満なくしては不可能なのである。
神には人を与え、人には神を与える。
それが祭司職である。
キリスト者はもうひとりの祭司であり、祭司はもうひとりのキリストに他ならない。
「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。
・・・・聖霊を受けよ。」(ヨハネ20・21~22)
もうひとりのキリストとなるためには、
どうしても聖霊を受け、
聖霊に充満され、
キリストに変容されなければならないのである。
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
ひとりびとりが確実に、この理想境に到達しなければならない。
あなたにとってキリストがすべてのすべてであられるとき、
人はあなたの出会いを通して、キリストに出会うに至るであろう。
なぜなら、鏡に映すように鮮やかにキリストを表現することが可能となったからである。
「フランシスコの心に湧き起こった愛は、きわめて熱烈だったので、
そのときから、キリストに似た者となること、
できる限り完全にキリストにならうこと、
キリストと全く一つになること、これが彼の最高の願望となった。
彼の心に燃え上がった愛の火は、
完全にキリストに変容されたいという望みを彼にいだかせた。
彼の心はいつもイエスのことで一杯だった。
キリストに対するこの愛が彼を駆(か)り立てて、
ついにキリストにそっくりあやかるものとさせたのである。」(アシジの聖フランシスコより)
「主よ、あなたの火のような愛の力が、
私をも焼き尽くし、おんみのみ姿へと変容せしめたまえ!」