~聖なる道~



第5日 こ の 宝
「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、
わたしたちから出たものでないことが、
あらわれるためである。」(コリントの信徒への手紙二4・7)
奇跡の聖人アントニオは、深い平和と歓喜に溢(あふ)れつつ、しみじみと語るのであった。
「友よ、エマオへの途上において、二人の弟子に起こったことを覚えているか。」
「主ご自身と共に歩いていながら、
彼らの目がさえぎられて、
それがイエスであることを認めることができなかったということか。」(ルカ24・15~25参照)
「その通りだ。
主ご自身が共にましますのに、山の彼方(かなた)の空遠く、主をさがし求めていたのだ。
しかし、今こそわたしは、
すでに与えられている、自分自身の内なるキリストの現存を再発見したのだ。
わたしは魂の中で、静かに語られる主に耳を傾けているのだ。
主ご自身が魂の奥底で絶え間なく湧(わ)き出る泉のように、
慰め力づけてくださるのを感じている」と。
使徒パウロが実感していたことを、アントニオも実感していたのである。
事実、聖霊をうけた者は、
一人の例外もなくこの宝、キリストの現存を持っているのである。
しかし、不信仰によって目がかすみ、御名がキリストであることがわからないのである。
二人の弟子がイエスを再発見したのは、
キリストと一緒に泊まり、
主とテ-ブルを共にし、
主ご自身よりパンを受け、食したその瞬間のことである。
「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。」(ルカ24・31)
キリストを再発見すること、
しかしてキリストのうちにこそ、
神の無尽蔵の力が充満していることを、再発見したものは幸いである。
あなたの目が開けて、自分自身のうちにあるこの宝、
それが主でありキリストであることがわかったなら、
あなたもまた使徒パウロのように、
「わたしを強くして下さるかたによって、
何事でもすることができる」(フィリピの信徒への手紙4・13)と叫び出すであろう。
まことに神は、ご自身の栄光の富の中から、
あなたがたのいっさいの必要を、
キリスト・イエスにあって満たして下さるのである(フィリピの信徒への手紙4・19)
「わたしは一つの事を主に願った、
わたしはそれを求める。
わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、
主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
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あなたは仰せられました、
『わが顔をたずね求めよ』と。
あなたにむかって、わたしの心は言います、
『主よ、わたしはみ顔を尋ね求めます』と。
 ・・・・・・・・・・・・
わたしは信じます、
生ける者の地でわたしは主の恵を見ることを。
主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。
主を待ち望め。」(詩篇27・4、8、13~14)