「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、
あなたの
目をわたしの道に注げ。」(箴言23・26)
1936年4月年会において、満州開拓伝道の任命を受けた時、
わたしは一大決心をしたのであった。
「主よ! わたしに満州を与え給え! しからずば、死を与え給え!」
満州のリバイバルに真実いのちを賭(か)けたのである。
「主よ! 満州にリバイバルを与え給え、しからずば死を!」
わたしは、この一事にすべてを傾注したのであった。
この熱烈な祈祷は、金の香炉(こうろ)を満たし、
ついに地に傾けられ(黙示録8・3~5)、
満州の大リバイバルとなり、全満をゆり動かすに至ったのである。
もしあなたが、真実リバイバルを望むなら、この条件を満たさなければならない。
リバイバルの第一条件は、まず自分自身の心を、
全存在を、
神の栄光と人類の救いのために、
主ご自身に完全に与え尽くすことである。
そうすれば、主はご自身をあなたに与え尽くし、
神はあなたにあってすべてとなられるであろう。
もし真にあなたの家庭が救われることを望むなら、家庭にキリストを与えよ。
もし日本のリバイバルを望むなら、日本にキリストを与えよ。
全人類の救いを望むなら、人類にキリストを与えよ。
人類には神を与え、神には人類を与える。これが真の祭司職である。
もしあなたが、リバイバルの起こらない理由を、
事情境遇、
または他者の責任として転嫁(てんか)し、
自分自身の責任と自覚しない限り、
絶対にリバイバルを経験することはないであろう。
自分自身を全焼のいけにえとして、
祭壇に献げ切らない限り、天よりの火は下らないであろう。
「どうか、あなたが天を裂いて下り、
あなたの前に山々が震い動くように。
火が柴木(しばき)を燃やし、
火が水を湧(わ)かすときのごとく下られるように。
そして、み名を・・・・あらわし、
もろもろの国をあなたの前に
震えおののかせられるように。
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いにしえからこのかた、
あなたのほか神を待ち望む者に、
このような事を行われた神を聞いたことはなく、
耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
あなたは喜んで義を行い、
あなたの道にあって
あなたを記念する者を迎えられる。」(イザヤ書64・1~5)
リバイバルの条件は、
まず心を主に与え、
全存在を主に与え、
全き献身を成就すること、これである。
第二の条件は、「あなたの目をわたしの道に注げ」(箴言23・26)、
「あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる」(イザヤ書64・4)
としるされているごとく、神の道、神の計画、神の法則を知り、これを採用することである。
しかるに、多くの人々は、
自己主張によって、
自分の考え、自分のやり方によってリバイバルを起こして見せる、と主張しているのである。
自己流によっては、生涯労しても何の獲物もないであろう(ヨハネ21・3)
「この神こそ、その道は非のうちどころなく、
主の約束は真実である。
彼はすべて彼に寄り頼む者の盾(たて)である。」(サムエル記下22・31
「彼らは自分のつるぎによって国を獲(え)たのではなく、
また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたのみ顔の光によるのでした。」(詩篇44・4)
ある日、一人の神父が聖ヴィアンネ-師を訪問し、
「どうして私の伝道によって回心者が起こらないのでしょうか。
あなたの成功の秘訣(ひけつ)は、どこにあるのでしょうか」と質問すると、
師は言下に、「あなたは色々努力を試みたと申されるが、
幾度断食し、
幾度徹夜して祈り抜き、
涙を注いで泣き、
罪人の回心のために祈り抜きましたか。
ここまでやらない限り、万事を尽くしたとは決して言えません」と。
一時的な感情、一時的な決心や努力、一時的な真似事(まねごと)で、
決してリバイバルは起こるものではない。
「主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。
涙をもって種まく者は
喜びの声をもって
刈り取る
種を携え、涙を流して出て行く者は
束(リバイバル)を携え、喜びの声をあげて帰ってくる。」(詩篇126・4~6)
これこそは主の道であり、リバイバルの法則である。
しかるに、世には、種をまくことをせず、
涙の祈りをすることなくして、
リバイバルを期待している人の多くあるのは、実に悲しむべきことである。
近世におけるリバイバルの歴史の中で、
ウェ-ルスのリバイバルは、全世界によく知られている。
ウェ-ルスのリバイバルを見たいとの憧(あこが)れを抱き、
はるばる尋ねて来た人が、
駅員に、「ウェ-ルスのリバイバルはどこでしょうか」と質問したところ、
駅員は喜びにあふれつつ、自分の胸のボタンのところをおさえ、
「リバイバルは、わたしのこのボタンの下です」と答えたのである。
神ご自身に全く与え尽くした心の中に、
リバイバルの聖火が燃えあがるのである。
リバイバルは、自分自身のうちにリバイバルを持つ人によってのみ起こされるものである。
満州におけるリバイバルの導火線となったすばらしい奇跡は、
1941年(昭和16年)1月12日、
大連市沙河口浸信会(バブテスト)における神癒(しんゆ)聖会にて、
汪本婕(ワンペンショウ)姉が
脊椎(せきつい)カリエスより瞬間的に癒(いや)されしことによる。
汪姉の発病は3年前よりのものであり、
腰部の三骨が、あたかもらくだの背骨のごとく、
はなはだしく突出し激痛にうめきつつギブス・ベットに寝たきりの生活、
前途の希望もなく、絶望のどん底にあえいでいたのである。
按手祈祷(あんしゅきとう)を受けた瞬間、
アイロンを当てた布のごとく、突起していた三骨が正常になり、
激痛も失せ、その上、長年の悩みであった脱肛(だっこう)も、完全に癒(いや)されたのであった。その結果、ギブスとコルセットは全く不要となったのである。
この奇跡は、全満に一大センセ-ションを巻き起こしたのであった。
満州における中国人伝道の期間は、
1941年11月21日より開始されし、大連市沙河口浸信会より、
1942年7月24日、旅順信義(ル-テル)会聖会までの九ヶ月足らずの期間である。
その期間に持った集会数は228回、神癒の恩恵に浴せし者8025名である。
「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、
耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされ」(マタイ11・5)たのである。
年配の中国人伝道者、信徒が、集会において受けた印象は、
使徒行伝の再現との印象であり、
わたし個人に対する印象としては、
ジョン・宋博士を髣髴(ほうふつ)たらしめた、と口々に語るのであった。
「主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。
この年のうちにこれを新たにし、
この年のうちにこれを知らせてください。」(ハバクク書3・2)