これは高い天の次元のことではなく、低い地についた次元のことである。
宗教法人「ooo会」という名称の教団が存在し、その会に啓示された使命、目的を達成するためには、組織された機関を必要とし、その機関を運営・活用するためには、秩序を必要とする。

世俗における選挙と異なり、十分祈りをもって、神の尊前にあって、責任ある投票をすべきである。
選挙するに当たっては、いささかなりとも、肉の自分の好み、利害、都合などのためにすべきではない。
oooo会の発展、どこまでも神の栄光と人類の救済(きゅうさい)、聖イエス会に啓示せられし使命達成、という動機と目的のためにのみなすべきである。
世俗の中の選挙と、教団における選挙とは全く次元が異なる。
選出する人物は、
ooo会に啓示されし御名の福音に生きている人であるか、
会の発展とイスラエルの救い、
メシヤの来臨、経綸実現成就のために燃えている人であるか、
人格者であり、公平かつ愛の人か、聖なる雰囲気(ふんいき)を持った祈りの人か、
信仰の人であり、
またリ−ダ−シップを有する人か、沈黙を守れる人であり、
金銭にはきわめて潔白な人か、過去における実績はどうであるか、多くの人々より尊敬されている人であるか(テモテへの手紙一3・2〜5)
「だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、
アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。
同様に、
キリストさえもまた、大祭司の職を自分で得たのではなく、
『あなたこそは、わたしの子。
きょう、わたしはあなたを生んだ』と言われたかたから、
お受けになったのである。」(ヘブライ人への手紙5・4〜5参照)
キリストご自身すら、そうであるなら、決して立候補も自選もすべきではない。
わたしは聖職者のうち最も小さく、卑(いや)しき無益の僕(しもべ)である、
と謙遜卑下(けんそんひげ)し、いささかも野心をもつべきではない。
「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」(コリントの信徒への手紙二10・18)
しかし、幸か不幸か選びを受けた場合には、
謙遜と祈り、信仰をもってこれにこたえ、
全力を尽くして任に当たるべきであり、
また、いささかもおごった心を持つことなく、
公私を混同せず、感情に支配されることもなく、
何事をなすにも慎(つつし)み深くなすべきである。
寛容と信仰と愛が最も必要である。
選んだ人々は、教団はわたしのために何をしてくれるのか、と期待し求むべきではない。
そうではなく、わたしは教団のために何をすべきであるか、
今、わたしは教団にいかに協力すべきか、を考えるべきであり、
可能なかぎり奉仕すべきである。
そうすることによって、
あなたのために天にたくわえてある、朽(く)ちず汚れず、しぼむことのない
資産を受け継ぐ者となるであろう(ペテロの手紙一1・4)
「主が、あなたの霊と共にいますように、
恵みが、あなたと共にあるように。」(テモテへの手紙二4・22)
黙示録には七つの教会のことがしるされている。
これは、使徒時代よりキリスト再臨に至るまでの教会の姿を示したものであり、
最後の教会時代(終末時代の教会)は、ラオデキヤ教会時代として預言されているのである。
「ラオデキヤ」とは、「民を喜ばすもの」の意であり、世俗的、俗化的、微(び)温的、民主的を意味することばである。
「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい。」(ヨハネの黙示録3・16)

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、
実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、(霊的に)目の見えない者、
裸な者であることに気がついていない。」(ヨハネの黙示録3・17)
かくのごときが世俗教会の姿なのである。
世俗的精神がはいりこむと、
教会は聖なる霊的雰囲気を失い、力を失い、
ついに霊的に腐敗(ふはい)し堕落(だらく)するとの意味である。
これは、きわめて危険なことである。
それゆえ、かくのごとき世俗は、注意深く拒否せねばならない。
キリスト教界において、改革と言うとき、正統な解釈はただ一つしかない。

聖書に帰れ! 福音に帰れ! キリストご自身に帰れ! 原点に帰れ!ということである。
しかるに、改革がはきちがえられ、
「今までの教団のあり方は、時代感覚にマッチしない。
全く時代おくれの超保守主義、非民主主義、われわれの尊厳、自由が無視されている。
それゆえ、今日に適合した制度に改革すべきである」と言うにある。
かくのごときがラオデキヤ主義であり、
神中心、聖書中心、使徒伝承の福音主義から全く逸脱したものである。
それは改革ではなく、改悪である。
会則は、その精神において、個人の自己主張、独裁(どくさい)を拒否するものであり、
キリストに在(あ)って、すべての者が自我を否定し、
ooo会という共同体が、
信仰と愛によって一致し、
神の光栄と人類救済の偉大な使命のために協力するために存在するものである。
小さきテレジヤは、「私の最も恐れることは、私の意志を所有することです」と言っている。
いかにも自我を徹底的に粉砕した人のことばにふさわしいものである。
神の栄光のためにのみ創造されたわれわれは、
キリストの御宝血による傑作となり、
ただ神の栄光のみを求め、神の栄光をあらわすことを生涯の目的とすべきである。
いささかも自我の願望を追及すべきではない。
自分の短い一回きりの地上での存在を、
神ご自身を喜ばせ奉(たてまつ)り、神への愛のために燃焼する者でありたい。
これが、神のみ旨(むね)にかなうところの、全焼のいけにえである。
十字架の聖ヨハネは、愛をかく定義している。「愛とは、神以外のものを愛さないこと。」