〜霊的遺書〜



第11章 聖霊の印
「私たちをあなたがたとともにキリストにあって堅(かた)くし、
また私たちを聖別して<油をそそいで>くださった
<聖霊の賜物(たまもの)を私たちに与えてくださったかたは神です。
神はまた、私たちをご自身のものにし、
ご自身の証印を私たちの上に押し、
ご自身の聖霊を、保証金<ご自身の約束が実現する保証>として、
私たちの心にお与えになりました。」(コリントの信徒への手紙二1・21〜22)
「彼(キリスト)にあって、あなたがたも真理のことば、
すなわち、あなたがたの救いの喜ばしい知らせ<福音>を聞いて、
彼を信じた者として、長い間約束されていた聖霊の証印をもって印を押されたのです。

このみ霊は、私たちの嗣業(しぎょう)の保証
<前もって与えられる経験、私たちの受け継ぐものの手付け金>であり、
贖(あがな)いの完全な所有を予期させ、神の栄光を賛美させるのです。」(エフェソの信徒への手紙1・13〜14、詳訳)
聖イエス会のメンバ−が、
キリストとの出会いを通して聖霊を受けたということを証するとき、
聖霊の印
<神ご自身の御名(ハシェ−ム)>を啓示するのは、まことに聖書的であり、
それは聖霊を受けしことを立証するに十分なしるしなのである。
一例をあげるなら、「我は全能の神なり」との聖なる御名を、
私が書いた場合、
それに私の名をしるし、私の印を押すのは、私が書いたという証明のためである。
アブラムが神と出会い、
神がアブラムのうちに内住された時、
我は全能の神なり」との御名を印されたのである。
かくして、アブラムは神によって新生し、アブラムとされたのである。(創世記17・1〜5)
「神はモ−セに言われた、『我は有りて在る者なり。』(文語訳)
また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい、
「『わたしは有る』というかたが、
わたしをあなたがたのところへつかわされました」と。』」(出エジプト記3・14)
ここにおいては、「エヒイェ−・アシェル・エヒイェ−」
すなわち、自ら存在する者との御名によって、
神はモ−セのうちに内住されしことを啓示しているのである。
「彼らは彼(神なるキリスト)のみ顔を見、
彼のみ名が彼らの額(ひたい)にしるされます。」(黙示録22・4、詳訳)
天界に在(あ)る聖徒達は、ひとりの例外もなく、聖霊の印を受けているのである。
それゆえ、聖霊の印こそは、間違いなく天国行きのパスポ−トなのである。
聖霊が現実的に内住されるとき、どのようにしてそれを認識し、
また、聖霊を確実に受けたという疑う余地のない保証は、何によって証明されるのか。
それは、聖霊の印(神の御名の啓示)によってである。
印にはそのものの名が刻銘されている。
印は名を啓示するものであり、名は実体を啓示するものである。
聖霊の印があってこそ、
神の子の保証、終わりの日における体の復活の保証、
神の国を継(つ)ぐことの保証なのである。
印を押すことの秘義の一つは、
そのものの姿を複写することであり、再現することである。
聖霊の印によってこそ、キリストの似姿となり、キリストの形なり、キリストへと変容するのである。
聖霊の印の教義は、聖イエス会に啓示された最も重要なる教義であり、神学でもある。