〜霊的遺書〜



第9章 使徒・祭司
「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである。
そして、あなたがたを立てた。
それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネ15・16)
「『父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたをつかわす。』
そう言って、彼らに息をふきかけて仰せになった、
『聖霊を受けよ。』」(ヨハネ20・21〜22)
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施(ほどこ)し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終り(完成)まで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28・18〜20)
「この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、
霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、
イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(ペトロの手紙一2・5)
人々に聖霊を伝達することを使命とする使徒職、
人には神を与え、神には人を与える祭司職にたずさわる者は、
聖霊を注油され、
聖霊に満たされし聖なる神の人であらねばならない。
使徒職の秘訣は、絶え間なくキリストに一致し、神のいのちそのものに生かされ、
聖霊のくまなき浸透を受け、
生けるキリストの表現となり、キリストを反映する存在となること、これである。
使徒、すなわちアポストロスというギリシャ語は、「遣わされし者」の意であり、
ある意味でメシヤを意味することばである。
「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ20・21)を意味するものである。
祭司とは、ラテン語においてSACERDOSであり、
語源的にはSACRA DANSよりきており、「聖なるものを与える」を意味するものである。聖霊を伝達する、キリストご自身を与える存在であるゆえである。
使徒、祭司はもうひとりのキリストと言われるゆえんが、実にここにこそ存するのである。
聖イエス会(HOLY ECCLESIA OF JESUS)の名称は、
イエスに聖が冠せられているのではなく、選ばれし公会に聖がつけられているのである。
「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペトロの手紙一1・16)とあるごとく、
主イエスは本性上聖なる者であられるが、その聖なるイエスご自身に接木され、
一体とされ、神の性質、聖なる本質にあずかることによって、われわれは聖なる者とされるゆえである(ペトロの手紙二1・4)

使徒、祭司たるべき者の条件は、聖霊の注油により、聖別され、聖なる者であらねばならない。
人間の聖化、神化の源泉は、内住されし聖霊ご自身である。
聖霊との親交において、人はキリストに変容されてゆくのである。
「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施(ほどこ)し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終り(完成、完結)まで、いつもあなたがたと共に(うちに)いるのである。」(マタイ28・19〜20)
全世界の福音化という偉大な使命、
人類には神を与え、神には人類を与える、この偉大な使命に参与するために、
われわれは聖霊をもって注油され、任職されたのである。
聖イエス会よ、聖霊に充満されたる群れであれ。
聖イエス会よ、聖人のグル−プであれ。聖イエス会よ、聖霊の火に燃え輝く群れであれ。