〜霊的遺書〜



〜第三章 あかしびと〜
「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、・・・・・地のはてまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1・8)
使徒言行録1章5節、8節において、聖霊が与えられるとのすばらしい約束を見る。
第2章1節〜4節においては、ペンテコステの日に、祈り求めた聖霊が傾注され、弟子達がみな聖霊に満たされた事実を見るのである。
第3章1節〜16節において、聖霊に充満され、上よりの力を受けし使徒ペテロが、
イエス・キリストの名によって、しるし(奇跡)を行い、
キリストをみごとに証したことを見る。
その結果、「彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が5千人ほどになった」(使徒言行録4・4)とのすばらしいリバイバルを見るのである。
クリスマスは、神が人となられたことを意味するが、ペンテコステは、人がもうひとりのキリストとなることを意味している。
「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。』
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、
『聖霊を受けよ』」(ヨハネ20・21〜22)とのみことばが、そのことを明白に示している。
聖霊を受けた者は、ひとりの例外もなく、
キリストの救世事業に参与するように、
使徒的使命への召命(しょうめい)を受けているのである。
この偉大な使命、人類救済の使命への召命に、全群をあげて参与し、こたえねばならない。
ひとりびとりがこの自覚に目覚め、この偉大な使命に献身するとき、
キリストの教会は生気をとりもどし、「教会は使徒行伝のごとく」との標語を、実現するであろう。
宣教の本質は、全存在をもって生けるキリスト御自身を証(あかし)すること、
キリストをあざやかに顕示し、
人をしてキリストとの出会いを体験させることにある。
人には神を与え、神には人を与える。これが宣教の本質である。