〜見えるようなれ! 十字架のキリスト〜




ゼカリヤ書 12:10〜14
わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、
憐れみと祈りの霊を注ぐ。

彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、
独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむよう悲しむ。


列王記下 6:15〜17
神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、
軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。
従者は言った。
「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」
するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、
彼らと共にいる者より多い」と言って、
主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。
主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで
山に満ちているのを見た。

ルカによる福音書 18:35〜43
「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
イエスはお尋ねになった。
「何をしてほしいのか。」
盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人はたちまち見えるようなり、
神をほめたたえながら、イエスに従った。

使徒言行録 3:1〜10
ペトロは言った。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。
ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

聖なる道 第6日 わたしにあるものをあげよう
使徒職において与えるもの、それは金ではなく神である。
「神の霊の伝達、すなわち、人々に聖霊を得させ、
人々を聖霊に支配されたものにすることを使命としたこの霊的奉仕」においては、
聖霊の充満なくしては不可能なのである。

神には人を与え、人には神を与える。それが祭司職である。
キリスト者はもうひとりの祭司であり、
祭司はもうひとりのキリストに他ならない。
「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす。
・・・・・・聖霊を受けよ。」(ヨハネによる福音書20:21〜22)
もうひとりのキリストとなるためには、どうしても聖霊を受け、
聖霊に充満され、キリストに変容されなければならないのである。

「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)

あなたにとってキリストがすべてのすべてであられるとき、
人はあなたとの出会いを通して、キリストに出会うに至るであろう。
なぜなら、鏡に映すように鮮やかにキリストを表現することが可能となったからである。

彼の心に燃え上がった愛の火は
完全にキリストに変容されたいという望みを彼にいだかせた。