〜純金の燭台(純金の信仰者)となるために〜



出エジプト記 3:1〜14

モーセの召命
モーセは神に言った。
「わたしは何者でしょう。
どうして、ファラオのもとに行き、
しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

わたしは何者でしょう
純金の燭台(純金の信仰者)となるために、
カルバリーの丘は、自分の力やがんばりで登る山ではありません。
主イエス・キリストと共に登る山です。
柔和・謙遜・愛のキリストを、みごとに映し出す、
もう一人のキリスト、
同胞の救いとリバイバルを祈る純金の信仰者、純金の教会、純金の燭台としてください。

純金の燭台とは
使徒ヨハネが、パトモス島において見せられた純金の燭台、
それは教会の象徴でした。
純金とは不変のもの、変わることのない神性のシンボルです。
純金の教会とは、御名によってキリストの神性に与り神化された教会です。

燭台に注がれる油は、純粋で、混じりけのないものでなければなりません。
聖霊によって、浄められ、純粋で混じりけのない、聖霊の油を注ぎ、
なぜ神は、純金で燭台を作れ、と命じられたのでしょうか。
金は、永遠に輝きを失うことはありません。
燭台が純金であることは、神の光が永遠に輝き続けることを表すものです。


イエス・キリストこそ純金の燭台
「わたしは世の光である」と宣言されるイエス・キリストこそ純金の燭台でありました。
主イエスは、大いなる試練を通りましたが、復活され、
命を与える霊となられ、永遠に輝き続ける純金の燭台となりました。

純金の燭台の完成
この燭台に、神の火をともすのは、誰なのでしょうか。
シオンの義は、燃える松明となり、エルサレムから神の救いの光が、全世界を照らすのです。

純金の信仰
純金の教会、その完成は、「純金の信仰」にかかっています。
イエス・キリストの神性とメシヤ性に対する信仰、純金の信仰にかかっているのです。

イザヤ書 53:5
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。


十字架の黙想 第23日
預言を知り受難のメシヤを理解するものにとっては、
これこそメシヤたる確証となるものであり、
イエスが真実如何に全人類の罪を負い、
完全に罪の詛を受け給いしかを知り、
無量の感に胸打たるるのである。
永遠の先在者、天地万物の創造者、言(ロゴス)なる神が受肉し、
一点の罪なき御自身でありながら、
人類に身代りて十字架に釘けられ、罪と見なされ、詛われる者となり、
かくして正義の神は御子イエスを罪の肉の状となして、
肉において罪を罰し、
無限にして完全な贖いを成就なし給うたのである(ローマの信徒への手紙8:3)