〜主の名を呼び求める者は〜



使徒言行録22章
パウロ、自分の回心を話す。
わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。
『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、
『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。
『主よ、どうしたらよいのでしょうか』と申しますと、
主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。
わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなってしまいましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
ダマスコにはアナニアという人がいました。
この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。
『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。

出エジプト記 3:1〜15
神は続けて言われた。
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。


エゼキエル書 47:1〜9
命の水
すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。
川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。
この水が流れる所では、水がきれいになるからである。
この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。

詩篇121
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。


十字架の黙想 第15日
人祖アダムが罪を犯した時、
神は人類を敵の手より救い出すメシヤ(救い主)を
婦(おんな)の苗裔(すえ)より起こし給うことを約束なし給うた。
自己放棄は完徳への狭きけわしき道で殉教にひとしい程の価値を有する。
殉教の死は一時に与えられるが、
自己意志の死は時時刻々であり生涯に亙(わた)るからである。