〜天国の律法者であるイエスとの出会い〜


「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ5・3)
「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは血を受けつぐであろう。」(マタイ5・5)
「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5・8)
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5・48)
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。」(マタイ5・1)
この光景は、ヘブル書第一章の「神は、むかしは、預言者たちにより、
いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
この終りの時には、御子によって、
わたしたちに語られたのである」(ヘブライ人への手紙1・1〜2)

を思わしめる。
神の人モーセはその昔、シナイ山上において、神ご自身より十戒(じっかい)を授かり、
下山してイスラエル民族に旧律法を伝達したが、
イエス・キリストは平地にいる群衆を山上に導き、
新しい律法者として天国の大憲章を与え、律法上の義に替え、福音による義を啓示し、
新しい選民を神の国へと導くのである。
これは一般的には山上の垂訓(すいくん)とよばれているものであり、
シナイ律法が外的行為を命じているのに対して、新律法は極めて霊的であり、
内面(精神)を重視しているのが特色である。
したがって、新律法を実行するためには、
どうしても人間が「心の深みまで新たにされて、
真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人」(エフェソの信徒への手紙4・23〜24)とされることを前提としている。
「主は言われる、見よ、
わたしがイスラエルの家およびユダの家と、
新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、
わたしも彼らをかえりみなかったからであると、
主が言われる。
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と
立てようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。」(ヘブライ人への手紙8・8〜10)
このみことばによって明白であるように、新律法は旧律法とは本質的に異なるものである。
旧律法はきびしく命ずるが、それを実行するに十分な能力、恩恵を与えなかった。
キリストは命ずるのみではなく、それをみごとに実現させるために、
ご自身の御霊を賦与し、
「聖霊によって、
わたしたちの心に注がれる神の愛(アガベ−)」(ローマの信徒への手紙5・5)
に押し出されて天国の新律法を実現することができるようにして下さるのである。
「それだから、あなたたちは
あなたたちの天のみ父が完全であられるように完全にならなければならない
〔すなわち、徳と高潔のほんとうの高みに到達して、
心と品性において
完全に円熟した敬けんへと成長しなければならない〕。」(マタイ5・48、詳訳)
キリストによる神の国の新律法は、ここに至って頂点に達する。
これこそは天国憲章の核心ともいうべきものである。
新律法がシナイ律法よりはるかに卓越したものであり、
旧律法の完成であることをここに示し、
全く天的次元のものであることを啓示しているのである
それは、もはや人間の能力、限界をはるかに超えたものであり、
キリスト・イエスとの完全な一致によってのみ実現可能なものなのである。
キリストのいのちそのものに生かされ、
キリストの義、キリストの聖、キリストの愛、
キリストの完徳を所有することによってのみ実現成就するのである。
しかし、このことを命じたキリストは、
わたしたちをこのレベルにまで、完徳の高嶺(たかね)の絶頂にまで、
導こうとされているのである。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、
走ろうではないか。」(ヘブライ人への手紙12・2)
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。」(マタイ5・3)
「霊において貧しいもの<自分をつまらない者と評価する謙そんな人>は
祝福されている<幸福である、うらやましい状態にある、霊的に栄えている
〔すなわち、外側の状態にはかかわりなく
神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている〕>。
なぜなら、天の国はその人たちのものだからである」と詳訳聖書は訳している。
この貧しさは物質的な貧しさではなく、人間の内なる本質、内的姿においてのことである。
神は人間の心を、神以外のものをもっては満たすことができないように造られたのである。
それゆえ、神に出会うまで、神にいこうまで、人間の心は貧しく空虚なのである。
真実に心の貧しさを自覚したもののみが、一途(いちず)に神ご自身を追求し、
ついに神に出会い、天国を自らのうちに体験し、把握するに至るから幸いなのである。
神以外のものをもって空虚を満たそうとする者は、
神ご自身を求めないために天国を失うのである。
「悲しむ者は祝福されている〔その幸福は神の愛顧の経験から生じたもの、
特に神の比類のない恵みの啓示によって与えられたものである〕。
なぜなら、その人たちは慰められるからである。」(マタイ5・4、詳訳)
キリスト者の悲しみは、世に言う不幸ではなく、自己の罪に対する深い認識による。
自分は罪深い者であり、それゆえキリストを十字架につけた者なのであり、
聖人にはほど遠い存在であるとの悲しみである。
この鮮烈な痛悔心は、ひたむきに十字架のキリストを求めさせ、
ついにキリストとの出会いを体験させ、
十字架のキリストとの出会いは聖化の恵みにあずからしめ、
キリストとの一致に到達せしめ、天的な慰めにあずかるものとするから幸いなのである。
「柔和な者<穏やかな、忍耐深い、しんぼう強い人>は祝福されている
<幸福である、喜悦にあふれ、喜びに満ち、霊的に栄えている
〔外側の状態にはかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている〕>。
なぜなら、その人たちは地を受け継ぐからである。」(マタイ5・5、詳訳)
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる。」(マタイ11・29)
イエス・キリストの生涯において、最も特色づけられている姿は、柔和謙遜である。
キリスト者の特性もまた柔和謙遜であらねばならない。
柔和な人こそ最もキリストに似た人である。
柔和な人は争わず、何事においても、自己を放棄し十字架を甘受する。
キリストと共に十字架につけられることを望むのである。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)とのみことばが、その人の霊的生活となっているのである。
その結果、乳と蜜との流れる約束の地は、
完全にその人の所有となっているがゆえに幸いなのである。
「義<まっすぐであることと、神のみ前での正しい身分>に飢えかわく者は祝福されている
<霊的に栄えている
〔すなわち、新生した神の子たちが神の愛顧と救いを享受している状態〕>。
なぜなら、その人たちは十分に満足させられるからである。」(マタイ5・6、詳訳)
この義は世に言う人間的レベルの義ではなく、天国の義であり、神の義である。
しかして、神の義はキリストご自身に外ならない。
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
すべて信じる人に与えられるものである。」(ローマの信徒への手紙3・22)
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、
いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を
見ることができるだろうか。」(詩篇42・1〜2)
生ける神ご自身との出会いに渇く、霊魂のはげしい渇き、
この焼けるがごとき神への渇きは、神との全人格的出会いによって、
神を味わい知るまでいやすことのできない性質のものである。
生ける神と出会い、
神を味わい、
神を体験的に知ったものは、
真の満足を経験するゆえに幸いなのである。
「あわれみ深い者は祝福されている
〔それは、外側の状態にはかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている〕。
なぜなら、その人たちはあわれみを受けるからである。」(マタイ5・7、詳訳)
あわれみとは慈悲、同情を意味する。
それはイエスの特性の一面であり、同情、ゆるし、救済となって心より流れ出るものである。
ロゴスの受肉、キリストの十字架の受苦、
すべてはキリストの愛、あわれみのあらわれにほかならない。
使徒職は単なる義務ではなく、
キリストの愛、あわれみの流出、押し出しによるものであらねばならない。
それはキリストのいのちに生きる、霊的いとなみの結果であるゆえに、幸いなのである。
「心のきよい者は祝福されている
〔外側の状態にはかかわりなく神の愛顧の経験から生じ、
特に神の恵みの啓示によって与えられる幸福を得ている〕。
なぜなら、その人たちは神を見るからである。」(マタイ5・8、詳訳)
心の清い者とは、心が単純であって、人生の目的、目標の単一な人、
すなわち神をすべてのすべてとする人のことである。
神以外のものには一瞥(いちべつ)だにしない人、
神に全精神を集中している人のことである。
そのような人はついに清澄な心とされ、神を見るに至るのである。
心情の清められた者はキリストの現存を内に見いだし、
キリストにおいて神を見るのである。
神を見ることは人生における最高最大の喜びである。
「平和をつくる者は祝福されている
<霊的に栄えている
〔外側の状態にはかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている〕>。
なぜなら、その人たちは神の子たちと呼ばれるからである。」(マタイ5・9、詳訳)
「平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えてくださるように。
主があなたがた一同と共におられるように。」(テサロニケの信徒への手紙二 3・16)
平和をつくり出すためには、まず自分自身のうちに、神との平和を体験しなければならない。キリストご自身こそはわたしたちの平和である。
このキリストとの一致、キリストに在(あ)ってのみ、人はピース・メーカ−たり得るのである。その人達こそ真実神の子なのである。
「義のために<正しくあり、また正しい事を行なうゆえに>迫害される者は祝福されている
〔すなわち外側の状態にはかかわりなく
神の愛顧と救いに喜びと満足を見いだす状態にある〕。
なぜなら、天の国はその人たちのものだからである。」(マタイ5・10、詳訳)
神の国を支配する原理は、義であり愛である。
義と不義とは対立し、キリストとベリアルとは相容(い)れることはできない。
善と悪とは水と油の関係にある。
そのためにクリスト者は、いつの時代にも迫害されるのである。
義のために迫害されている者は、
罪と不義とに対して妥協することなく、信仰のために戦っている者であり、
その人こそ天国をすでに獲得しているのである。
「人々が私のためにあなたたちをののしり、迫害し、
また偽ってあらゆる種類の悪口をあなたたちに対して言うときは、
あなたたちは祝福されている<幸福である、うらやましい状態にある、
霊的に栄えている
〔すなわち、あなたたちの外側の状態にはかかわりなく
神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている〕>。」(マタイ5・11、詳訳)
「おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。
・・・・・彼らはわたしの名のゆえに、
あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。」(ヨハネ15・20〜21)
キリストをついに十字架にかけたこの世は、
キリストご自身の現存を内に宿し、存在そのものをもってキリストを反映する者を、
必ず迫害するであろう。
・・・・・彼らはわたしの名のゆえに、
あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。」(ヨハネ15・20〜21)
キリストをついに十字架にかけたこの世は、キリストご自身の現存を内に宿し、
存在そのものをもってキリストを反映する者を、必ず迫害するであろう。
信仰の勇者達は拷問(ごうもん)を受け、
あざけられ、むち打たれ、つるぎで切り殺され、
ある者達は無一物(むいちぶつ)になり、
苦しめられた(ヘブライ人への手紙11・35〜38)。
それは彼らがキリストに生き、キリストを反映し、真理を証したからにほかならない。
モーセは、「罪のはかない歓楽にふけるよりは、
むしろ神の民と共に虐待されることを選び、
キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。
それは、彼が報いを望み見ていたからである。」(ヘブライ人への手紙11・25〜26)
「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5・12)
「それだから、あなたたちはあなたたちの天のみ父が完全であられるように
完全にならなければならない
〔すなわち、徳と高潔のほんとうの高みに到達して、
心と品性において
完全に円熟した敬けんへと成長しなければならない〕。」(マタイ5・48、詳訳)
キリストの福音は、完徳の最高峰にまでわれらを導き、
聖霊ご自身がひとりびとりの内に、
みごとにキリストを形(かたち)造るのである(ガラテヤの信徒への手紙4・19)。