〜人間を漁(すなど)るイエスとの出会い〜


「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」(ルカ5・4)
「そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。」(ルカ5・6)
「恐れることはない。今からあなたを人間をとる漁師になるのだ。」(ルカ5・10)
「そこで彼らは船を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」(ルカ5・11)
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。
そのさばきは窮(きわ)めがたく、その道は測(はか)りがたい。」(ローマの信徒への手紙11・33)
主イエス・キリストの語られたみことば、その行われたみ業は、
人知をもっては窮めがたく、まことに測りがたいものである。
東方の天文学者達をご自身に導くためには星を用い、
ガリラヤの漁夫を導くためには、大漁の奇跡をもって、それをみごとに実現されたのである。
まことに神の知恵と言うべきである。
ルカによる福音書第五章に記録されている、奇跡的大漁と弟子達の使徒職への召命は、
霊的に豊かな意味と、経綸的預言の上から測り知れない意義と重大な内容とをもっているのである。
「群衆が神の言(ことば)を聞こうとして押し寄せてきたとき、
イエスはゲネサレ(キンネレテ)湖畔に立っておられたが、
そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。
漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
その一そうはシモン(ペテロ)の舟であったが、イエスはそれに乗り込み、
シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、
そしてすわって、舟の中から群衆に教えになった。」(ルカ5・1〜3)
イエス・キリストによる神の国の福音宣教は、
その初期においては順風に帆をあげた舟のごとく、
祭司、律法学者、パリサイ派による反撥(はんぱつ)もなく、
群衆からその行くところにおいて爆発的歓迎を受け、
今日的表現をもってすれば、リバイバルの連続であった。
「群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき」(ルカ5・1)
ルカは、群衆がイエスのもとに殺到して集ったのは、
イエスによる宣教の結果引き起こされたリバイバル・ブームに対する野次馬的好奇心、
奇跡に対する関心からばかりではなく、真剣に神の言をきくためであることを告げている。
しかも、ルカはいかにも医学者らしい観察から、
「イエスの説教を聞こうとして」と書くことを避け、
「神の言を聞こうとして」と深い注意をそそいでいる。
それは、イエスが語られることばを、単に宗教家、ラビの説教として聞くことがないように、
イエスのことばを人のことばとしてではなく、
神の言として聞き入るようにとの配慮からである。
ルカは冒頭から、イエスのメシヤ性のみではなく、
その神性を力強く印象づけようとしているのである。
「そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。
漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
その一そうはシモン(ペテロ)の舟であったが、イエスはそれに乗り込み、
シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、
そしてすわって、舟の中から群衆に教えになった。」(ルカ5・2〜3)
イエスがペテロの舟を選んでお乗りになったことには、深い意味がある。
ノアの箱舟がそれを示していたように、舟は教会のシンボルであり、
ペテロは割礼の者(ユダヤ人)への福音の使徒であり(ガラテヤの信徒への手紙2・7)、
イエスの宣教も、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
そして地の果てまで(使徒言行録1・8)の順序であらねばはらなかったからである。
「イエスはそれに乗り込み」、「舟の中から・・・・お教えになった。」
これは実にすばらしい啓示である。
その第一は、真正の教会(エクレシャ)とは何かを示している。
すなわち、インマヌエルであられる主ご自身を宿し、
キリストの現存を確実にもつている存在であることを示している。
その第二は、神ご自身が教会時代において人類に語りかけられる普遍的原則は、
使徒のうちに内住し、教会の中から、教会を通して語りかけられるということである。
「よくよくあなたがたに言っておく。
わたしがつかわす者を受け入れる者は、わたしを受けいれるのである。
わたしを受けいれる者は、
わたしをつかわされたを、受けいれるのである」(ヨハネ13・20)と、
キリストが語られた通りである。
「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」(ルカ5・4)
イエスの命令は、漁師であるペテロにとっては、常識はずれのものであった。
キンネレテの湖での漁(すなどり)は、日中よりも夜中が普通であり、
昨夜も夜通し働いたのであったが、何もとれなかったのである。
「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」(ルカ5・5)
ペテロのうちに信仰の芽ばえを見、また単純率直、従順な態度を見ることができる。
「そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚(うお)の群れがはいって、
網が破れそうになった・」(ルカ5・6)
偉大な真理の教師でもあられるイエスは、
ペテロ、ヤコブ、ヨハネがまさに参与しようとしている、使徒職の秘訣を教えられたのである。使徒職とは、神ご自身の働きに参与することであり、
自我意志を完全に放棄し、十字架を負い、キリストに従うことのうちにのみ、
その成功のあることを啓示されたのである。
この奇跡的大漁は、前夜の失敗の直後であっただけに、
彼らに鮮烈な印象を与えるに十分であった。
使徒職においてなすべきことは、キリスト・イエスとの一致の深みに到達することであり、
キリストのみことばに仕えることである。
そこにのみ深みのある真実の福音宣教があり、深みのある福音宣教においてのみ、
奇跡的大リバイバルが与えられることを学ぶのである。
「そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、
彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。
そのために、舟が沈みそうになった。」(ルカ5・7)
もう一そうの舟とは、経綸的預言的光によれば、異邦人教会のシンボルである。
永遠の生命に予定されているイスラエルの全数が、満たされることによって、
永遠のいのちに予定されている異邦人の全数も満たされ、
エクレシャが完成されることの予表である。
「このキリストにあって、建物全体(ユダヤ人と異邦人と)が組み合わされ、
主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがた(異邦人)も、
主にあって(ユダヤ人と)共に建てられて、
霊なる神のすまい(エクレシャ)となるのである」(エフェソの信徒への手紙2・21〜22)と、
使徒パウロも言っている通りである。
「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、
『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。』
彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。」(ルカ5・8〜10)
弟子達はこの驚異的奇跡を通して、
イエスのうちに神的全知と神的能力とを認めざるを得なかったのである。
弟子達は今、イエスにおいて神の現存を、
かって体験したよりもより強烈に経験したのであった。
「わたしは罪深いものです。」聖なる神の臨在のあるところに、
人間の心に深い認罪と、畏敬(いけい)の念が起こるのである。
ペテロは今さきまでイエスを「先生」(ルカ5・5)と呼んでいたが、
今は「主」(ギリシャ語でキュリオス、ヘブル語でアドナイ)と呼んでいる。
これは、彼の内心においてイエスへの信仰に、革命的変化が起こったことを示している。
イエスご自身のひざもとにひれ伏し、
「イエス・キリストは主である」と告白しているのである(フィリピの信徒への手紙2・11)。
ペテロは、師であったイエスにおいて、今は神に出会っているのである。
「イエス・キリストは主(アドナイ)である」と告白することによって
その信仰告白は頂点に達するのである。
「すると、イエスがシモンに言われた、
『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師にになるのだ。』(ルカ5・10)
魚をとっていた漁師が、人間を救う使徒職への光栄ある召命を受けたのである。
このすばらしい大漁の中で、真実な意味で漁(すなど)られたのは、
その実使徒たち自身であった。
真正のリバイバルは、使徒職への献身者を続出せしめる好例である。
人間をすなどる使徒職において、最も力あるものは神の言である。
しかり、聖書のみことば、聖なる神の御名(ハッシェーム)である。
「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」そうすればとれるだろう。
全能(オールマイティ)の神は、終末をすべくくる大リバイバルをみごとに、
実現してくださるであろう。
もし使徒たるものがキリストの現存をもたないで、
夜通し働いたとしても、成功を見ないであろう。
しかし、使徒がキリストの現存の体験の中で、キリストが全能の主であることを確信し、
神の言に仕えるなら、
しかり、キリストにあって、キリストと共に一致して働くなら、大リバイバルを見るであろう。
使徒職の力はキリストの現存であり、神の言である。
福音の宣教者は、終末をすべくくるリバイバル、
全世界の福音化という、重大な責任をおっているのである。
「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」(ルカ5・11)