〜ユダヤ人の王なるイエスとの出会い〜


「ヤコブから一つの星が出、
イスラエルから一本のつえが起こる。」(民数記24・17)
「わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、
輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22・16)
「ユダヤ人(じん)の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。
わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました。」(マタイ2・2)
「幼子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、
黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」(マタイ2・11)
マタイによってしるされた福音書の主要テーマは、アブラハムの子孫であり、
ダビデ王の系図から生まれ出たイエスこそは、
聖書に預言されていたイスラエル民族の希望の星であるメシヤであり、
イスラエルの期待の王であり、ダビデの位に座してその国を治め、
とこしえに公平と正義をもってメシヤ王国を確立し、これを支配し統治するところの、
待ち望まれた平和の君であることを、選民イスラエルに啓示することにある。
「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」(マタイ1・1)
このイエスの人性の系図を冒頭にしるしたのは、
マタイによる福音書の使命、その意図するところは何かを、端的に指し示すことによって、
選民に強烈な印象を与え、それ(イエスのメシヤ性と神性)を証明するためである。
聖書がここにアブラハムの子と言う場合、単にアブラハムの子孫を意味せず、
神がイスラエル民族の太祖アブラハムに約束され、
その子イサクにおいて象徴されていた、約束中の約束の子メシヤを意味しているのであり、
聖書がここにダビデの子と言う場合、神がダビデに約束され、
その子ソロモンにおいて象徴されていた、
平和の君であり王の王であるメシヤを意味しているのである。
この約束の子であるメシヤにおいて、
神がアブラハムに約束されたすべての約束は実現成就されるのであり、
また神がダビデ王に約束されたすべての約束は、
彼の子であるメシヤにおいて実現成就されるのである。
「イエス」とはギリシャ語であって、「主は救いである」との意味であり、
まことに人類の救い主に最も適した名である(マタイ1・21)。
このイエスというギリシャ語を、ヘブライ語に訳せば「ヨシュア」となる。
それゆえ、ユダヤ人であるクリスチャン牧師は、
ギリシャ語(異邦人語)のイエスを使用せずに、
ヘブライ語のヨシュアを使用するのが普通であり、この現実を知らないと、
異邦人クリスチャンは旧約聖書に登場するヨシュアと混同することしばしばである。
「キリスト」はギリシャ語であり、「油を注がれた者」との意味であり、
ヘブライ語ではメシヤとなる。
したがって、キリストとは救世主を意味する称号である。
この「キリスト」「メシヤ」という称号は、深い霊的意義を内蔵している。
キリストは、神ご自身より無限無量に注油された御者(イザヤ11・1〜2、42・1、ヨハネ3・34)であられるゆえに、
聖霊をもってバプテスマをほどこし、人々を聖霊をもって満たし、
人々を聖霊に支配された存在とすることを示しているのである(マタイ3・11、ヨハネ1・31〜34)
このイエス・キリスト(メシヤ)において、
選民の(そしてすべてのクリスト者の)すべての希望が、
全的に完全に実現成就されるのである。
メシヤであり、王の王であられるイエスが降誕された時、
最初に礼拝に来た人々は、
選民の中にあって指導的立場にあった祭司・律法学者達ではなく、
最も無学な貧しい素朴な羊飼いたちであった(ルカ2・8〜20)
さらに驚嘆すべきことは、
ユダヤの国より遠くはるかな、東方の異邦人である博士達の来訪である。
「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
見よ、東からきた博士達がエルサレムに着いて言った、
ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。
わたしたちは東の方でその星を見たので、
そのかたを拝みにきました。』(マタイ2・1〜2)
東方の博士達は、いまだイエスに出会わず、
その説教をきくことなく、その奇跡をいまだ見ずして、
生まれ給うたイエスの本性とその使命をいかに深く理解し得たことであろうか。
それは実に大きな驚きである。
この異邦人である東方の博士達を、イエス・キリストご自身へと導いてきたものは、
不思議な星であったと、彼らは語っている。
この博士達の生国は、アラビヤかペルシャであったであろうと考えられている。
彼らがイエスに献げた宝物によって、そのように想像されている。
博士(マゴス)とは天文学者、占星家を意味しているが、
彼らを導いた星については、聖書学者や科学者、天文学者の間で論議され、
彗星(すいせい)、流星等諸説があり、確定していない。
はたしてそれは天文学上の星であったか不明である。
イエス・キリストご自身、「わたしは世の光である。
わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、
命の光をもつであろう」(ヨハネ8・12)と語っておられるごとく、
開かれた霊の目によってのみ捕らえ得る神秘な光、啓示の光であったかも知れない。
それは、「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、
夜は火の柱をもって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった」(出エジプト記13・21〜22)
と記されているシエキナの栄光、
モーセの時代、エジプトを脱出したイスラエル民族を導き、約束の地に入らしめた、
あの神の現存の
しるしであるシエキナの栄光にきわめて類似している。
この神秘的な星の出現によって、
東方の博士たちは、
約束されていた偉大な王(メシヤ)がユダヤの国に生まれたとの霊感を受けたのである。
当時、選民はアラビヤ諸国、アジヤに至るまで離散しており、
この博士たちは選民との接触によって、
メシヤに関するある程度の予備知識を持っていたことは疑う余地がない。
この東方の博士達は、
恩寵によって福音の光の中に召される異邦人を代表しているのである(イザヤ56・6〜7)。
博士達は啓示の光に直ちに従い、メシヤとの出会いを求めて、
長途の旅行の困難と危険をもかえりみず、故国を出発し、
ついにユダヤの首都エルサレムに到着したのであった。
すると、不思議な星は、博士達の視界からその姿を消したのである。
信仰生活の途上には、しばしば希望の星が消え去り、霊魂の暗夜が訪れるときがある。
そのとき、博士達はどうしたであろうか。
「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」(マタイ2・2)
と謙虚に教えを乞(こ)うたのである。
すると祭司長や律法学者達は、「それはユダヤのベツレヘムです。
預言者がこうしるしています、
『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となる』」(マタイ2・5〜6)
と即座にこたえ、教え示したのである。
彼らはさすがに宗教家であり、聖書学者であった。
メシヤの出生地がどこであるかを、よく知っており、
ミカの預言第五章三節を引用し、みごとに指し示したのである。
それによって博士たちは、神の言葉である聖書を通して、
メシヤの誕生の地を正確に知ることができたのであった。
宗教家、聖書学者達は、俗に言う「論語読みの論語知らず」であり、
聖書知識はもっていたが、メシヤご自身との出会いを求めようとはしなかったのである。
彼らは博士たちにメシヤ生誕の地を教えながら、
自らメシヤを求めて、そこに礼拝に行こうとはしなかったのである。
彼らにとっては、神学と信仰とは別問題であった。
しかし、真の敬虔(けいけん)な信仰者であり、礼拝者である博士達は、
単なる聖書知識では満足することができなかったのである。
彼らの信仰の究極の目的目標は、
メシヤに出会い、真正(まこと)の神ご自身を礼拝することであった。
博士達は聖書の啓示に従い、直ちにエルサレムを後にし、
ベツレヘムへと旅立ったのであった。
メシヤの現存しないエルサレムは、彼らにとって全く魅力のないものであり、
神不在の神殿は全く無意味なものと思われたからである。
すると、「見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、
その上にとどまった。
彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、
また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」(マタイ2・9〜11)
主は、星の研究に没頭していた博士たちをメシヤに導くために、
星をもって導かれたのである。
真の科学は、究極において人を神に導くものであらねばならないことを示しているのである。
聖母マリヤに抱かれている幼子に出あった時、
彼らは躊躇(ちゅうちょ)することなく、ひれ伏して拝んだ。
外見的に肉眼によって見るなら、貧しいみどりごにすぎない。
この幼子を礼拝せしめたもうのは、
啓示の光であり、彼らのイエス・キリストに対する信仰の眼指しである。
彼らは単にみどりごイエスを拝しているのではなく、
みどりごのうちに現存する神を礼拝しているのである。
「イエス・キリストは主(アドナイ)である」(フィリピの信徒への手紙2・11)
と告白して礼拝することにおいて、イエスへの信仰は頂点に達するのである。
まことに、真正の信仰のみが、みどりごの中に神を発見させるのである。
博士達の信仰こそは、メシヤとの出会いを求め、メシヤにおいて神に出会う秘訣を示す、
すばらしいモデルである。
彼らは宝の箱をあけて、贈り物を献げる。
その献げ物は彼らがいかに深い信仰を秘めているかを示している。
黄金・乳香・没薬、この三つの献げ物は象徴的な深い意味をもっている。
黄金=それは不変であるゆえに、永遠不変の神性のシンボルであり、高貴な本質を示し、
王の王のシンボルである。
この献げものによって彼らはイエスの王性と神性をみとめ、
その主権を認め、うやうやしく礼拝を献げたのである。
乳香=それは礼拝のために、神に祈るために使用される香料であり、
これを献げることによって、イエスを礼拝の対象としての神と信じ、
また祈りを執り成したもう大祭司長として、信じていることをあらわしたものである。
没薬=それはメシヤの苦難を示す。
メシヤの受難は人類の罪のあがないのためであり、
イエスご自身こそは贖罪主(あがないぬし)であるとの信仰告白なのである。
言(ロゴス)が御人生をとり、この世に誕生された御者こそ、イエス・キリストなのである。
博士達は、イエスの人性を通して、
イエスご自身において鮮やかに啓示されたインマヌエルの神を、
恍惚(こうこつ)のうちに礼拝したのである。
ここにインカーネーションの奥義が存在するのである。
「言は神なり。」(ヨハネ1・1)
「み子は神の栄光の唯一の表現<神性の輝き>であり、
〔神の〕本質の完全な刻銘<かたちそのもの>であられます。」(ヘブライ人への手紙1・3、詳訳)