〜主なるキリストとの出会い〜


「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。
御使は言った、
『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
このかたこそ
主なるキリストである。
あなたがたは、幼子が布にくるまって飼い葉おけに寝かしてあるのを見るであろう。
それが、あなたがたに与えられるしるしである。』
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高いところでは、神に栄光があるように、』
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。』
御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、
羊飼いたちは
『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか』と、互いに語り合った。
そして急いで行って、
マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子(イエス)を捜(さが)しあてた。
彼らに会った上で、この子について自分たちに告げられた事を、人々に伝えた。
人々はみな、羊飼いたちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、
神をあがめ、またさんびしながら帰っていった。」(ルカ2・8〜20)
イスラエル民族の太祖アブラハム以来世紀の流れを通じて
選民が伝統的に抱き続けてきた究極の目標、それはメシヤご自身の来臨であった。
イスラエル民族の歴史はメシヤ待望の歴史でもあった。
太祖アブラハムを始めとして、族長達の抱いてきたメシヤ・イメージは霊的であり、
天的であり、神ご自身との出会いにおいて啓示された、栄光に輝くメシヤでもあった。
しかし、時代の変換と共に体験した、国家の滅亡、民族の離散、異邦人による支配、
迫害受難の民族的歴史は、次第にメシヤ・イメージに変化を与えていったのである。
選民のメシヤ・イメージは宗教的、霊的メシヤから、
政治的、現世的、地上的、英雄的なメシヤ・イメージへと
漸進的に変えられていったのである。
ユダヤ教のラビ達が、タルムードやミドラッシュを編纂(へんさん)するに及び、
それらが一種のブームを起こし、聖典(聖書)よりも重視される傾向が生じ、
メシヤ・イメージに一層変化が生じたのであった。
神の時がついに満ちて、イエス・キリストが降臨されたそのとき、
その喜びのおとずれを最初に告知されたのは、
ユダヤ教の祭司でもなく、また聖書学者でもなく、実に貧しい素朴な羊飼い達であった。
それは人間的視野よりすれば、突発的異変のごとく思われたに相違ないが、
決してそうではなく、それは神と人間との正しい関係において与えられしものであった。
われわれが謙虚に受けとめなくてはならないのは、まさにこの点なのである。
ユダヤ教のラビ達が、わたしにしばしば問いかける質問は、
どうしてアブラハムの神が、
ユダヤ教のラビにではなく、異邦人のキリスト教の牧師にご自身を啓示し、
かくもイスラエルに関する重大啓示を与えたのか、ということである。
神に出会うためには不変の原則がある。
「あなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、
主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。」(申命記4・29)
まさしくこの原則に従って、
主ご自身を求める者のみが、ついに信じた御者に出会い、
真実に愛した者のみが、ついに愛に出会うのである。
この原則によって、
心が貧しく、清純であり、単純素朴な羊飼い達に、
啓示が与えられたのであり、そこには何の不思議もあり得ないのである。
「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。」(ルカ2・8)
ダビデの町と称(とな)えられたベツレヘムは、小高い丘の上に立つ町である。
「ベツレヘムエフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者(メシヤ)があなたのうちから
わたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。」(ミカ5・1)
ミカ(紀元前740年)がメシヤの降誕の地として預言していたその町である。
町の立っている丘のふもとは急傾斜を描いて下方に広がり、
その一帯は美しい畑地となっている。
その畑の中心部はボアズが所有していた畑であり、
異邦の女ルツが落穂を拾った畑である。
この畑で展開されたボアズとルツとの、妙(たえ)にも美しいロマンのドラマは、
メシヤなるキリストと、信仰によって約束の聖霊の証印を受け、
キリストの花嫁とされる異邦人教会との、霊的婚姻のシンボルである。
この畑の近くに起伏する小さい丘がある。
その丘一帯こそは羊飼いの野と呼ばれ、その昔少年ダビデが羊を飼った野でもある。
その夜は、あたかも輝く宝石を満天にばらまいたように星が輝く、
神秘的とさえ思われる寒い冬の夜であった。
「すると主の御使が現れ、
主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(ルカ2・9)
人類、わけてもイスラエル民族が、
久しく待望していた大きな喜びの音信(おとずれ)を伝達するために、
神のみもとより天使が派遣されてきたのである。天使のメッセージに耳を傾けたい。
「すべての民に与えられる大きな喜びを、
あなたがたに伝える。
きょうダビデの町に、
あなたがたのために、
救主がお生まれになった。
このかたこそ
主なるキリストである。」(ルカ2・10〜11)
天使によって伝達されたこの短いメッセージは、
神から人類が受け取ったものの中で、最も重要なものの一つである。
人祖アダムが罪を犯し、神との親しい交わりを失って以来、
人類の歴史は暗黒と悲しみ、喜びを知らぬ苦難にみちたものであった。
しかし「きょう」メシヤの降誕によって新しい、喜ばしい時代が到来したのである。
まことに「きょう」ということばは特別な意味をもつ。
換言するなら、神ご自身が人類史の中に介入された記念すべき日を意味する。
それゆえにこそ、まことに大いなる喜びのメッセージなのである。
メシヤの到来によって旧世紀にピリオドが打たれ、
新世紀がメシヤの降誕と共に誕生したのである。
メシヤは単にユダヤ民族のためばかりではなく、
全人類のために、
救い主として、
罪と死とを征服し、人類をそれにより解放し、
永遠の命を与えるために来られたのである。
「このかたこそ主なるキリストである。」
天使はベッレヘムの馬ぶねの中で、今呱々(ここ)の声をあげたみどりごを指し示し、
「主(アドナイ)ギリシャ語でキュリオス(Kurios)の称号を冠するのである。
ヘブル語でアドナイと言うとき、それは神ご自身を意味する。
ギリシャ語で、「キリスト」(Khristos)と言うとき、
それは「油注がれたる者」の意味であり、
ヘブル語でメシヤ、聖書において啓示されていた約束の救世主を意味する。
天使が使用したイエスに対するこの二つの称号こそは、
イエスの神性とメシヤ性を最も的確に啓示するものであり、
「イエス・キリストは主(アドナイ)である」(フィリピの信徒への手紙2・11)との啓示なのである。
「するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
『いと高きところでは、
神に栄光があるように、
地の上では、
み心にかなう人々に
平和があるように。』」(ルカ2・13〜14)
「イエス・キリストは主である」と信仰告白することにおいて、
イエスに対する信仰告白は頂点に達する。
人類救済のために、神であられる神の御子が、
身をかがめて人間性をとり、救世主として降臨されたのである。
「神が人となり給いしは、
人を(ある意味において)神とせんためなり」とのアウグスチヌスのことばは、
ロゴスの受肉の神秘、インカーネーションの奥義をみごとに表現している。
おびただしい天使の群れの、メシヤの降誕を讃(たた)える大コーラスが天地に響きわたる。
メシヤ降誕の目的は何か。
その第一は神の光栄のためである。
神であられる神の御子が人生をとり、受肉することにおいて、
神は人類にご自身の光栄を啓示するためである。
「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」(ヘブル人への手紙1・3)
そのものであられるゆえに、そのことが可能なのである。
その第二の目的は、人祖アダムの堕罪によって失われた楽園(パラダイス)、
神との親しい交わりによる最も深い平和が、メシヤのあがないのみわざによって、
再び回復されるためである。
メシヤによる贖罪によって、神と人間との間に真の和解が生じ、
天と地が融合し永遠の平和が訪れるためである
「御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、
羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行って、
主がお知らせくださったその出来事を見てこようではないか』と、互いに語り合った。
そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある
幼子を探しあてた。(ルカ2・15〜16)
神のことばをきき、それを信じ、直ちに行動する人はまことに幸いである。
その人は必ず約束されたかたに出会い得るからである。
純朴で疑うことを知らない羊飼いたちは、羊飼いの野からさほど遠くないベツレヘムへ、
急いで出かけて行き、ついに待ちに待ったメシヤを捜し当てたのである。
羊飼たちは、飼葉おけの中に寝かしてある幼子を、
感動の涙をあふれさせながら見入り、ひれ伏して礼拝するのであった。
彼らが肉眼でとらえているみどりごは、外見的に見ればひとりの男の子にすぎない。
しかし、この幼子こそは、預言者イザヤが指し示していたそのかたなのである。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、『霊妙なる義士、大能の神、
とこしえの父、平和の君』ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもって
これを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ9・5〜6)
羊飼いたちは今、探しあてた幼子において待望のメシヤを見、
メシヤにおいて主ご自身とまさに出会い、
うやうやしく敬虔(けいけん)に礼拝をささげたのである。
彼らの単純素朴さ、深い信仰は、イエスの貧しさにも、
馬小屋の飼い葉おけにも決してつまずくことはなかった。
この捜しあてたみどりごを、主として、またキリストとして心より信じ受け入れ、
イスラエルの慰め主として礼拝したのであった。
「心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは
神を見る」(マタイ5・8)