〜序説〜


福音記者ヨハネは、自分の手によって書いた福音書を結ぶに当たって、
「これらのことを書いたのは、
あなたがたが
イエスは神の子キリストであることを信じるためであり、
またそう信じて、イエスの名(本質のハッシェーム)によって
命を得るためである」(ヨハネによる福音書20・31)と、
福音書を書いた目的を示しているのである。
今日、キリスト教関係の書籍は、数多く出版されている。
しかし、
イエスの神性とメシヤ性を鮮明に浮き彫りにし、
イエスの名(その本質のハッシェーム)によって、永遠の命を得しめるにふさわしいものが、あまり見当たらないのは寂しい限りである。
今はまさに終末時代であり、
この終末時代に召命を受け、福音の伝達者として選ばれし者には、
重大な使命と責任がある。
終末をすべくくるリバイバルを起こし、
キリストの再臨を促進するという偉大な使命があるのである。
そのためには、単にキリスト教を伝えるのではなく、深みのある宣教が必要なのである。
換言するなら、
宣教において、イエスと出会わせ、イエスの神性とメシヤ性を信ぜしめ、
御名(ハッシェーム)によって聖霊の印を押し、
永遠の命そのものを伝達しなければならないのである。
深みの宣教をするためには、
まず宣教者自身が、イエスと出会い、全存在において神を体験しなければならない。
大使徒パウロは言っている。
神に生きるために、わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが
わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)
「わたしにとっては、
生きることはキリストである。」(フィリピの信徒への手紙1・21)
神に生きるとは、現実的にいかなることなのか。
キリストと共に十字架につけられる神秘的体験、
生けるキリストが、自分のうちに現存しておられることの発見、
生きることはキリストであることの発見、
単に知的な浅い理解においてではなく、
神に生きることによって、人間の生活をキリストの生き方に変容させ、
キリストの地上生涯の再現たらしめること。これが必要なのである。
終末的宣教の目的は、
全世界全人類に、神であるキリストご自身を与えることであり、
神に全人類を与えることであらねばならない。
「この福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、
救いを得させる神の力である。」(ローマの信徒への手紙1・16)