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  希望に生きる

 パラグライダーとの出会い

今から4年前の1990年、私はパラグラーダーの墜落事故で、一瞬にして両下肢の機能を失い、車椅子の生活となってしまいました。

 高校、大学時代を通し、教会中心の生活を喜びとしていましたが、ある時期より、教会以外の活動や、仕事に忙殺されて、神様よりも世の楽しみの中に身を置いて、だんだんと神様とは反する道を歩んでいくようになりました。子供達と共に冒険したり、キャンプ活動をしていた時に、パラグライダースクールのポスターを目にしました。

 私は小さい頃より病弱で、スポーツとはあまり縁のない者であったのですが、心の奥には何かスポーツを楽しめたらという想いがありましたので、直ちにこのスクールに通い始めました。当時、このスポーツは日本に入ってきたばかりで、ライセンス保持者も少なく、インストラクターなどは数えるほどの者でした。友人達からは、「運動音痴な君が、よくもまあ、山を登り、空を飛ぶなんて」と異口同音に言われましたが、私は、このパラグライダーの魅力を得意満面に話して聞かせました。夢中になって飛ぶに従い、ライセンスのランクも、B級、パイロット級へと上がり、ついにスクール専属のインストラクターの契約を交わすまでに至りました。

 汗まみれになりながら、グライダーを背負って山を登ること一時間半、標高差二千メートルもの高さから飛び出す高々度飛行はパイロットライセンスを有する者のみが許される領域であり、そのスリルと壮大なスケールのパノラマは言葉では表すことの出来ないほど素晴らしいものでした。また、気流の変化で急降下した時など、山飛びの難しさと同時に、大自然に対する畏敬の念を覚えました。

 その頃、一人の姉妹との再開がありました。この人は、私が再び神様のもとに帰るようにとの、心を注ぎ出して祈って祈って下さいました。この姉妹の祈りと献身が、私を神様に帰らせた原動力であったことは疑う余地はありません。

 墜落事故

 一九九o年五月、私はパラグライダースクールの仕事をするために、長野県黒姫高原スキー場を訪れました。連休半ばまで、あいにくの天候が続き、全く飛べなかったのですが、長野を発つ五月六日、晴天に恵まれ、新しいグライダーのテストフライトも兼ね、意気揚々としてスタート地点へ駆け登り、一本目を仲間と共に飛び立ちました。しかし、地上十五メートル位の所で私だけ落ちてしまいました。幸い電線と木に引っかかりながら落ちたために、何の怪我もなく、取り急ぎ機体を回収し、直ちに別の機体を取りにゲレンデを駆け降り、再び山を登っていきました。そうとうに気が焦っていたために、途中誰も目に入りません。ただ一点離陸地点を目指したのです。

 午前十一時十二分。二本目。大空の息吹を体全体で感じながら、悠々と飛んでいる時、地上三十メートル位のところで、三百六十度ターンをしようとしたその時、ガクンという衝撃と共に、本頭上にあるはずのグライダーが目の前に見え、次に浮力が無くなり、見る見るうちに地面が近づき、ついに地面にたたきつけらてしまいました。その瞬間、まるで体が半分にちぎれたかのように、おへそより下の感覚が全くなくなってしまいました。心臓外科、胸部外科、整形外科併せて八時間もの手術を受けましたが、私の足は何の感覚も戻らず、またぴくりとも動きませんでした。また、医師も不思議に思われたことでしたが、痛み止めの注射が全く効かず、死の恐怖と苦しみの一端を知らされました。

 第十二胸椎破裂骨折、それによる脊椎損傷。両下肢機能全廃。これが私に下された診断です。私はただの骨折だと思っていました。実際に仲間達が空より落ちて骨折し、二、三ケ月の入院ののち回復し、再びパラグライダーで飛んでいる姿を知っていましたので、私も回復して再び空を飛べるのだと思っていました。しかし、長野赤十字病院の主治医の医師から、わたしの足は神経が切れているので立つことが出来ない。全く回復の見込みはないと、はっきり告知されました。

このようしてに、今までの生活に完全にピリオドが打たれました。それは自分中心の生活から神を求めるようになるための、私に下された厳しい手段でありました。しかし、それも神の愛のみ業でした。「すべて私の愛しているものを、わたしはしかったり、こらしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(ヨハネ黙示録三章十九節)とある通りです。

車椅子の生活

 入院生活の中で、この姉妹は、主の御名によって祈り、御名に全てを委ね、その中に希望を抱くようにと、祈り励まして下さいました。目に見るところ、四方八方塞がれていても、ひとたび目を天に向けるとき、そこには無限の可能性があることを教えられた私は、肉体的には苦痛にあえぎながらも、「我は主なり」と御名を呼ぶうちに、心は御名によって力づけられていきました。

 三ケ月の入院生活を終え、車も手動装置に改造し、通勤も可能となった為、私は、職場の学校に復帰を願い出ました。その時、新たな壁が私の目の前に立ちはだかりました。それまでは、折りあるごとに、がんばってください、また学校に帰ってきて下さいと励ましの言葉を言われた同じ口から、思いがけない返事が返ってきました。それは「解雇」の二文字でした。学校側の対応は、障害者を抱え込むキャパシティーは無いという冷ややかなものでした。しかし、健常者と障害者という分け隔てのない見方、そういう教育現場にしなければと考える多くの先生方の励ましによって復職を果たすことが出来ました。

 今「車椅子の先生」として、ありのままの姿を生徒に示し、語り合う日々を過ごしています。

 同時に、神様は、教会に帰るようにと導いて下さいました。夜、仕事を終えての帰り道、聖イエス会嵯峨野教会の前を通るようになり、人目を避けて、門の所に車を止めて、祈るようになりました。ある日、いつものように学校へ行く道すがら、教会の前を過ぎようとすると、バイブルサンデーのポスターの「十字架のキリスト」の文字が私の目に呼び込んできました。

 「もしあなたが帰ってくるならば、もとにようにして、私の前に立たせよう。

私があなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからである。」

(エレミヤ15  )

 十字架のキリストのもとへ

 放蕩の末、ボロボロになった私でしたが、まるで鉄片が磁石に引きつけられるように、再び十字架の元に立ち返ったのです。一九九三年四月四日、私は教会の門を叩きました。十年ぶりの教会。長い間、砂漠をさまよい、様々なまぼろしに翻弄されていた旅人が、ついにオアシスにたどりつくように、私の渇ききった心は、命の水、聖霊を求めて、御名を呼びました。「我は主なり。我は主なり。」 聖なる御名を呼び求めるうちに、あたかも帰ってきた放蕩息子を最上の物をもって迎える父親の如く、神様はその聖なる御臨在の中にすっぽりと包んで下さいました。何という神の愛。特にペンテコステを前にした夜の集会で、「我は主なり」と御名を唱えるうちに、私の全身は、まるで高圧電流に触れたかのようにしびれ、気絶しそうになる位に神に満たされ、一方的な神の愛に魂は喜び踊り、感謝と共に、終わりの近いことを痛感させられました。

 希望に生きる

 イエスの御名はオールマイティー。イエスの御名は神のペルソナ。私を救い、私をいやし、私を清め、神化する。

 私にとって、この新しい歌、この新しい賛美は、大いなる希望を抱かせるものです。

 まず、神の国と義とを求めよ。そうすればこれらのことは(世の全ての問題の解決)は、添えて与えられる。

 金や、世の富、名声を求めていた私は、結局、何も手にすることが出来なかったばかりか、自分の命までも損ないかけました。しかし、今、見ゆるところの境遇がどのようであっても、まず、神の国を求め、神様に希望を抱くとき、様々な困難から全く解き放たれ、キリストの愛の内に生き、新しく変えられることを確信しています。そして、このように新しい命に生きるようにと導いて下さった神様は、肉体的にも再び立ち上がらせて下さることを疑うことなく信じます。

 あなたは弱った手を強くし、

 よろめくひざを健やかにせよ。

 心おののく者に言え、

 「強くあれ。恐れてはならない。

 神はきて、あなたを救われる。」

 その時、見えない人の目は開けられ、

 聞こえない人の耳は聞こえるようになる。

 足の不自由な人は、しかのように飛び走り、

 口に聞けない人の舌は喜び歌う。

    神は愛なり。


聖イエス会 嵯峨野教会
京都市右京区宇多野長尾町9
TEL(075)461-6863