〜出会い〜



〜ロゴス賛歌〜
@人間が到達し得る神認識の、最高峰にまであげられし福音記者ヨハネは、
その福音書の冒頭から、「言(ロゴス)は神であった」と、
この福音書をひもとくすべての人が、神を本質的に人格的に知ること、
真の神認識に到達することを切望し、
何よりもまずロゴスにスポット・ライトを当てるのである。
A「ロゴスは神なり」これは革命的神学である。
しかしそれは単なるユニ−クな哲学ではない。
Bヨハネ神学が高遠であり、深遠であるのは、思想においてのみではなく、彼が親しくイエスとの出会いを通して、
イエスご自身のうちに、ロゴスを現実的に見、
見ただけではなく、
実体的にロゴスに手触り、
その神性の栄光をまざまざと拝し、
その神的美に魅了され、
恍惚となるまで、「ロゴスは神である」(ヨハネ1・1)ことを体験したからである。
C実にヨハネにとってのロゴスは、哲学的概念としてのそれではなく、実体、実存、真実に実在する生ける真理、永遠の生命としてのロゴスなのである。
D人類にとって神は永い世紀にわたり、まことに「隠れた神」(イザヤ45・15)であられたが、
今や神はご自身の実体を、神ご自身の現存を、
いのちのロゴスにおいて、
霊魂に可感的に啓示されたのである。
Eこれこそは新約の大秘儀である。
Fしかし、ロゴスとの人格的出会いを体験しない人間にとって、
それは今もなを「隠れた神」であり、
ベ−ルをまとった神秘である。
Gロゴスが人間の最深部、核心に臨み宿るとき、
人間は真の神認識に到達し、
神の本質、神性、神的生命に参与し、聖化され神化される。
H人間の実在の核心において、ロゴスである神ご自身を抱擁しない限り、神化は期待し得ない。
なぜなら人間の最深部なる、霊魂の核心において、ロゴスとの実体的出会いを体験しないなら
人間の本質に革命的変化、神性への参与が行われないからである。
Iいのちのロゴスである神の種(神性の核心、実体)が、その人の実在の核心に宿ってこそ、人間の本性に革命的変革が実現する(ヨハネの手紙一3・9)。
J「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。」(ロ−マの信徒への手紙10・8)
ことばはあなたの近くにあっても、よし口にあっても充分ではない。
ことばはあなたの実在の最深部、核心の中に宿りとどまらねば、本性の根本的改革はあり得ない。
良き地にまかれた種のみが、芽を出し、花咲き百倍の実を結び、ロゴスの栄光をあらわすであろう。
K「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉はこれである。
・・・・自分の口で、イエスは主(アドナイ)であると告白し、・・・・主の御名(ハッシェ−ム)を呼び求める者は、すべて救われる。」(ロ−マの信徒への手紙10・8〜9、13)
L使徒ペテロも自らの体験を通して、超自然的新生の原因は、いのちのロゴスとの実体的一致結合によることをしるしている。
「新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない(神の種)から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。」(ペトロ手紙一1・23)
神の種であるいのちのロゴスの受胎によってこそ、人は超自然的新生を体験し、根本的に本質的に変えられ、神性への参与によって聖化され、神化される。
M「人はみな草のごとく、
その栄華はみな草の花に似ている。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、神の言葉は、とこしえに残る。」(ペトロの手紙一1・24)
N神の種の中にこそ、神性は凝縮(ぎょうしゅく)されて、まことに実体的に宿っているのであり、
神の種であるいのちのロゴスにおいて、
わたしたちは神の性質に与(あずか)り、
神的生命なる永遠の生命を確実に所有するのである。
O「この言(ロゴス)に命がある」(ヨハネによる福音書1・4)としるされている通りである。
P66巻の聖書のことばは、聖霊の霊感によって書かれたものであり、その意味においてまことに神のことばである。
それは神の語られたことばであっても、ことばなる神ではない。
神の語り給いし神のことばと、ことばなる神、すなわち「ロゴスは神なり」とは区別されねばならない。
Qヨハネ福音書第1章1節〜18節まではロゴス賛歌である。
聖ヨハネはロゴスなる神との出会いを体験し、ロゴスの神性の栄光に魅了され恍惚となり、その尊厳をたたえる。
R「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1・1)
66巻の聖書中、最も重大にして深遠、荘重なる啓示である。
この短い一句の中に、ロゴスの永遠性、位格性、神性が実に鮮やかに啓示されている。
ここにある初めは、時間と空間を超越した永遠無窮(むきゅう)のはじめであって、宇宙創造以前の次元における初めである。
言(ロゴス)は永遠の初めより、不変の完全なる存在と実体を有し、自立自存していたのである。
アウグスチヌスは「汝が存在し給わなかったら、一体何が存在するであろうか」と。彼にとって、神の存在は何ものの存在よりも確実絶対であった。
「神のみが唯一の不変なる実体本質である。この神にこそ最も高い、真実な意味で、彼がもって本質と呼ばれるところの、実に存在それ自身が属する」と。
S「言は神と共にあった。言は神であった。」
福音書の冒頭に三位一体の奥義を啓示する。
すなわち、一つの本性(実体・本質・神性)、三つの位格(ペルソナ)を示している。
この神における神秘を説明することは至難であるが、三つの自存者(ペルソナ)は相互に内住し、唯一の神性を共有しているがゆえに一体と言われているのである。
最高の善、最高の愛(アガベ−)の特徴は、自己を完全に譲渡することである。
それによって全く自らと等しいものを生み、生まれたものは、生んだものの神性を残りなく完全に実体的に所有し、完全無欠の同質性、平等性、永遠性をもつのである。
S@「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」(コロサイの信徒への手紙2・9)としるされている通りである。
SAヨハネによる福音書が徹頭徹尾強調し啓示するのは、イエスの神性に対して、スポット・ライトを当てる点にある。
「言は神なり」は本書の主要テ−マである。
マタイによる福音書は、イエスこそはアブラハムの子、ダビデの子、聖書の中に啓示されていた、約束のメシヤである点にスポット・ライトを当てることを目的としているが、本書はイエスの神性にスポット・ライトを当て、「ロゴスは神なり」を浮き彫りにする。
SBヨハネはロゴスの神的美に心奪われ、恍惚となり、ロゴス賛歌を高らかに歌い、そのとどまるところを知らぬものの如くである。
SC三位一体の内在的生命のいとなみは、けだし言語に絶するものである。
その言語に絶する神秘を、言語をもって説明を試みることの危険性を知るヨハネは、単純率直に太い線をもって、三位一体の奥義を鮮やかにデッサンするにとどめる。
「このロゴスは初めに神と共にあった。」(ヨハネによる福音書1・2)聖書の著者である聖霊が、そう導かれたからである。
SDロゴスは本性上神であることをたたえし彼は、三節(ヨハネによる福音書1・3)においてロゴスの創造性の面より、ロゴスの神性を証明する。
全宇宙世界創造において、神はロゴスによって万物を創造された。
言は万物創造の原因であり原理能力である。
SE使徒パウロも
「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。
これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」(コロサイの信徒への手紙1・16、ヘブライ人への手紙1・2)と、しるしている。
SF「かくの如くロゴスの神性と、その全能性を啓示するのは、一つ目的を目指してのことである。
万物の創造者なるロゴス、
そのロゴスが人性をとり時間の中に介入し、
人類の歴史の中に介入されたのは、
人類を罪と死より解放するためであった。
SG全知全能全愛の神が、同時にメシヤであり、それゆえにこそ、
メシヤの贖罪は完全無欠であって、
メシヤによる救済のみ業は、
いかなる罪人をも聖化し、聖人たらしめるに充分なのである。
神性への参与によって人間の神化はまことに可能なのである。
SHともあれ全宇宙万物は、個々にいたるまで例外なく、その存在の起源をロゴスに負っているのである。
〜ロゴスとの出会い〜
@「このロゴスに命があった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1・4)
ロゴスは非人格的な単なる概念ではなく、永遠に生ける人格的実在なのである。
真の神であり永遠の命そのものなのである。
生命の根源、大生命なのである。
A注目すべきことは、このロゴスに命があるということである。
Bイエスもかく語っておられる。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネ5・39〜40)
キリスト教にいのちがあるのではない。
聖書研究にいのちがあるのでもない。
C永遠の命は、生けるキリストご自身に、ロゴスのうちにあることを啓示している。
「わたしはよみがえりであり、命である。」(ヨハネ11・25)
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14・6)
「御子イエス・キリスト、このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。」(ヨハネの手紙一5・20)
D永遠のいのちとは神ご自身、イエス・キリストご自身、ロゴスなる神ご自身であることは明白である。
ロゴスとの実体的出会い、一致結合によってこそ、永遠のいのちに参与し、神のいのちそのものに生きるものとせられるのである。
〜この命は人の霊的光〜
@ロゴスと出会い、ロゴスが人の心の核心に臨み、現存を顕すとき、真理・いのち・実体・神性の栄光を鮮やかに啓示する。
「言(ロゴス)は神なり」と。
まことにまばゆいばかり神性の栄光を顕示する。
使徒ヨハネが実に深い神認識に到達し得たのは、ロゴスとの出会いを通してである(ヨハネの手紙一1・1〜3)
Aここにおいて留意すべきは「神」という表現についてである。
単に神という表現はきわめて概念的であり、皮相的でさえある。
神とはたれか、という点においてベ−ルをかぶっているからである。
それはあたかも「人間」という表現と類似しており、その人間は誰か、という点を示していないようにである。
B「ロゴスは神なり」、「われは全能の神なり」、「われは有りて在る者なり」、この御名の啓示においてこそ、神はたれかとの問題点が、はじめて人格的存在、実在として啓示されるのである。
それ故、アブラハムのごとき(創世記17・1)、またモ−セのごとき(出エジプト記3・14)、生ける神との現実的出会い、御名との出会いこそが、真実神との出会いと呼ぶにふさわしいものである。
C神に出会い御名を啓示されるとき、聖霊は御名を刻印される。
それが使徒パウロの言う聖霊の印である。
印には当然名が啓示されねばならない。
御名にあらざる聖書のみことばは、印とは言い得ない。
印は実体の写しそのものであり、御名には当然のことながら、その御名の啓示する実体、本質、命がある。
したがって御名によって命を受けるのである。
また印は実体の複写であり、複写を受けることによって、その似姿にあやかるのである。
このことは東洋人には、最も理解されやすいことである。
実印ありてこそ法的に実効を有するが、印無きものは一切無効である。
印はそのものを啓示する名でなくてはならない。
〜この世とロゴスとの出会い〜
@本書中、世ということばは、77回も使用されている。
一言にして言えば、自然的・肉的・世俗的不信の世界のことである。
A「彼(キリスト)は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」(ヨハネ1・10)
B原罪によって全く霊的盲人とされし人類は、真の光、命の光に直面しながら、全く理解せず、いのちであり真理の光である彼(キリスト)を、受け容(い)れる余地を持たなかった。
それほど霊的無知の闇は暗く、罪の迷妄(めいもう)の淵(ふち)は深くあった。
C永い世紀の流れを通じて、選民としてメシヤに関する教育を受けた者が、メシヤを歓迎するかわりに、徹底的に拒否し続け、遂にメシヤを十字架につけたのである。
「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」(ヨハネ1・11)
メシヤの民たるべき選民が、メシヤを拒否した罪は、言語に絶する不信の根深さと、霊的暗黒の度の深さを示す実例である。
〜ロゴスなる神との出会い〜
@しかし、ここに幸いなる「しかし」がある。
ここには拒否ではなく、全き受容がある。
「しかし、彼をうけいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・12〜13)
Aロゴスの受肉せしものなる彼、
比類なくユニ−クなる、神が人となりし彼、
真理でありいのちなる彼、
人類の救い主として、永遠のいのちを得しめるために、この世に来たり給いし彼である。
万民に待ち望まれしメシヤなる彼である。
B「彼を受け入れ」、
単にイエスをメシヤとして受け入れることではなく、
また単にイエスのメシヤ性と神性とを、知的に理解し信ずることでもなく、
彼を自己の救い主、神として積極的に心より歓迎し、
心を全開し、
霊魂の命、
彼をすべてのすべてとして人格的に迎え入れることを意味している。
C『名(ハッシェ−ム)』はユダヤ人にとり神を意味するものと信じられている。
名は体(実体)を示すものである。
名はそのものの本質実体と一体化されたものであるから。
Dこの時点で理解されねばならない重大秘儀は、
ロゴスとの出会いは換言すれば『名(ハッシェ−ム)』との出会いなのである。
それは人たるイエスとの出会い以上のもの、キリストとの出会い以上のもの、
まさしくそれはロゴスなる神との出会い、
神ご自身との正真正銘の出会いなのである。
E彼は神のみことばであるが故に、神をわたしたちに啓示し、
彼はいのちであるが故に、
現実的に永遠のいのちを賦与し、神性への参与によって、新たに生まれしめ、
わたしたちを真実神の子とし、神と一致結合せしめ、
わたしたちを高揚し、神の子たる権を与えるのである。
Fロゴスとの出会いを通して、いのちのロゴスをうちに受胎することにより、
神によって生まれ、神の子とせられるのである。
G肉なる人間の誕生は、女の胎内に、人間の種を受胎することによって生まれるが、
神の子の誕生は、人間の核心に神の種を受胎すること、
いのちのロゴスを受胎することにおいて、神の子は誕生する。
これは生まれいずる神秘であり法則である。
〜ロゴスの受肉〜
@「言は肉体となり」(ヨハネ1・14)、この言語に絶する偉大な神秘、
ロゴスのインカ−ネ−ションを説明することは不可能である。
感嘆すべきはこの空前絶後の神秘的現象を、「言は肉体となり」との一語をもって表現したみごとさである。
かくも重大にして偉大な神秘を内蔵する秘儀を、単純率直明快に、一語をもって表現することは至難の業である。
Aいのちのロゴスとの全人格的出会いを体験したヨハネにして、その霊的直観力の鋭敏さによってのみなされしことである。
Bレオ一世は「キリストの神秘」の中でかく説明している。
「神の御子は、御父と等しい光栄を失うことなく天上の高座から一直線に下降し、前例のない処置、前例のない誕生によって生まれ給うたのである。
C前例のない処置によってというのは、
主が、見えない神性を持ちながら、われわれの人間性を受けとられて見える者となられ、
把握できない高さを持っておられながら、把握されることを許し、
時間を越えたおかたでありながら、時間の中に介入し、
万物の主でありながら、ご自分の尊厳と威光をおおって、僕(しもべ)の姿をとり、
苦しみえない神でありながら、苦しみ得る人間となることを避けず、
不死なものでありながら、死の法(のり)に支配されることを排斥されなかったということを意味している。
D前例のない誕生によってというのは、
処女が懐胎し、処女性を失うことなくして生み、
父親の介入なしに、母親の貞潔を傷つけずに、主が生まれたもうことを意味している」と。
Eロゴス(神)が人となることは、旧約聖書に預言されていた。
「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。
見よ、おとめがみごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルととなえられる。」(イザヤ7・14)
「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」と(イザヤ9・5)。
〜その栄光を見た〜
@福音記者ヨハネは、ロゴスの受肉者なるイエスとの出会いを通して、
彼の神性の栄光、
御父のひとり子のみが独占所有している、ユニ−クな神性の栄光を見たのである(ヨハネ1・14)。
A父のひとり子の栄光とは、御父の完全無欠の生き写しを意味する。
「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」(ヘブライ人への手紙1・3)を意味する。
イエスご自身、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14・9)と語られしも、その意味においてである。
それは、父も子も唯一の神性を共有し、三位一体は、相互内住によって、完全に自己を他のペルソナに与え尽くしているからに他ならない。
B「めぐみとまことに満ちていた。」(ヨハネ1・14)
このみことばは出エジプト記第34章6節を想起せしめる。
「主、主、あわれみあり、恵みあり・・・・・いつくしみと、まこととの豊かなる神。」
御父の生き写しである御子が、めぐみとまことにて充満されているのは当然である。
彼こそは恩恵と真理の充満者、真・善・美の充満者、彼は無限の恩寵の源泉、まことに尽きるとこるなき恩恵の大洋(わだつみ)なる存在なのである。
C「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」(コロサイの信徒への手紙2・9)とある通りである。
D「律法」(ヨハネ1・17)はユダヤ教の根本経典たるモ−セの五書を意味し、その精髄(せいずい)は十戒である。
律法は対神的道徳と対人的道徳を教え、その実行を命ずるが、それを実行する原動力、霊的生命を与え得ないのである。
Eしかし、めぐみとまこととの充満者(プレロ−マ)なるイエス・キリストは、
自ら律法をみごとに実現成就したお方であり、
そのみちみつるいのちを、彼と一体とされた者に神秘的に豊かに注ぐ方なのである。
F神はその昔シナイ山において律法を与え給いしとき、
モ−セを仲介者とされたが、
新契約においてはイエス・キリストを仲介者とされたのである。
Gそれゆえわたしたちは、イエスとの出会いにおいて、
キリストに出会い、
キリスト(メシヤ)においてまことに神ご自身に出会い、ロゴスに出会うのである。
〜神の啓示者〜
@詳訳聖書はこの18節(ヨハネ1・18)をみごとに訳している。
「だれもまだ神を見たことはない。
ただひとりの比類のない子、
ひとり子の神
み父のふところにおられるかた、
そのかたが神を現わされた
啓示された
目に見えるように現わされた」と。
A神は不可見のおんもの、しかるにロゴスが人性を取り給いしにより、不可見なるものを可見的なものとなし給うたのである。
永遠と時間、超自然と自然、ロゴスと肉体、神性と人性との接触合一により、目に見えるように、神を啓示されたのである。
B「あらわした。」ロゴスの受肉の秘儀が、神と人間との出会いの根拠となったのである。
イエス・キリストこそは、まことに生ける神の具体現である。
イエス・キリストが神を啓示し、目に見えるように神を現されしは、彼が神の生き写し、神の本質の姿、神ご自身であられたからに他ならない。



@ヨハネによる福音書は、一つの目的、目標(神こそそれである)に向かって、直線的に一貫してわたしたちを導こうとする。
A「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名(本質)によって命(ゾ−エ−)を得るためである。」(ヨハネ20・31)
と福音記者自身が示している通り、
イエス・キリストとの人格的出会いを究極目的としているのである。
B使徒ヨハネにとって、イエス・キリストとの出会いは、彼の全生涯を決定的にする重大な出来事であった。
まことに、人間にとってキリストとの出会いほど、重大にして決定的なものはない。
Cヨハネによる福音書を見ると、選民であるユダヤ人も、異邦人もイエスに出会っている。
Dしかし、その出会いは各人各種である。
また永い世紀の流れを通じて、人類はイエスに出会い、彼のメッセ−ジを聞き、彼の本質を啓示するしるしを見た。
E人類は歴史上の人間であるナザレのイエスと出合ったが、
その大部分の人は、残念ながらキリスト(メシヤ)に出会いはしなかった。
ある少数の人々のみが、イエスと出会うことによって、まことにメシヤに出会ったのである。
彼らの告白がそれを証明している。
「わたしたちはメシヤにいま出合った。」(ヨハネ1・41)
まさしく彼らはメシヤと出会ったのであった。
Fしかし、注目すべきことは、あの時点においてメシヤには出会ったが、彼らが全存在をもって神との出会いを体験するのは、さらに後のこと、
イエスが復活されたその時点においてである。
G「わが主よ、わが神よ。」(ヨハネ20・28)
ここにおいて、イエスに対する信仰告白は頂点に達する。
この時点において彼らは、ナザレのイエスにおいて、メシヤに、メシヤにおいて真の神と出会ったのである。
H使徒ヨハネは、真にイエスを愛し、キリストと親しく交わり、キリストにおいて、神に出会ったのである。
単に出会ったのではなく、神の実体であるロゴスとの、人格的出会いを体験したのである。
I神を本質的に知ることにおいて、人は真の神認識に到達するのである。
ヨハネが認識した真の神認識は、「言(ロゴス)は神であった」(ヨハネ1・1)との認識であった。
J福音記者が究極的に目指すところは、自分自身が全存在をもって、
よく見て手でさわったもの、
すなわち、「いのちのロゴス」(ヨハネの手紙一1・1)との実体的出会いを、
すべての人が体験することにある。
K以上の観点から、ヨハネ福音書による、イエスとの出会い、メシヤとの出会い、神との出会い、ロゴスとの出会いについて、深く黙想し観想したい。


〜われ神に出会う(ヨハネ・言泉)〜


真紅の夕陽(せきよう)が 地平線の彼方へ
壮麗な姿を沈め 夕暮れはものわびしく
主にめぐり会うのは ああいつの日か
主と共にあらぬ すべては虚無なり

・・・愛に傷つきて 死ぬるばかり
・・・生きることは苦しみ しみわたる寂寥(せきりょう)
・・・生命(いのち)の充溢(いつ)を いつ体験するのか
・・・たえがたき悲哀 孤独にむせび泣く

涙の泉涸(か)れず 長い旅の放浪よ
とわにうつろわぬ者よ いずこにてか
あのまなざしもて 魅了されるのか
主にたぐうべきもの ほかにはあらじ

・・・わがこのいのち またおしからず
・・・生命の更新(こうしん) ああいつのとき
・・・至高の天へと 飛翔(ひしょう)するのか
・・・終局を目指し 力強くはばたけ

夜のしじまに 愛する者の臨在を
ひしひしと感ずる 燃える炎忽然(こつぜん)と
そは生命の言(ことば) 妙(たえ)なる御名(みな)
この心の最奥に 鮮明に印さる

ことばは神なり ロゴスは神なり
うちに啓示されし ハッシェ−ム
われ神に出会う 幸(さち)にあふれつ
一致のうちに 深く溶(と)けあう

・・・この愛の炎の中で 燃焼しつつ
・・・恍惚(こうこつ)のうちに 主の現存を楽しむ
・・・これぞ愛の宴(うたげ) 真理 生命(いのち)
・・・つきぬ喜び 久遠の平和

この生命の深みから 豊かにくみとり
福音の流れを エルシャライムへ
神の大河よ 地のはてばてまで
生ける水の奔流(ほんりゅう)を 怒濤(どとう)と注ぎつ

・・・ハレルヤハレルヤ ハレルヤ
・・・イスラエルの希望 全地の憧憬
・・・ダビデの子なる 栄光のメシヤを
・・・歓呼のうちに いざ迎えよ