〜出会い〜



〜見よ、神の小羊。このかたこそ神の子である〜
@「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29) 「見よ、神の小羊。」(ヨハネ1・36)
メシヤの先駆者の血をはくばかりの雄叫(おたけ)びも、選民の感動を呼び醒(さ)まさず、共感を得ることなくして、荒野の大気の中に消えゆくものの如くに思われた。
しかし、偉大な師によって心の畑が耕され、良き畑と化し、充分備えられ、メシヤを迎えるにふさわしくされていた。
少数の弟子達の心に、神の小羊なるメシヤ・イメ−ジは、強烈な光によって焼き付けられ、
その映像はもはや何ものをもってしても、消すことのできない不滅のものとなったのである。
A彼らもながい間ユダの獅子なるメシヤ・イメ−ジのみを大切に心に抱き続けてきたのであったが、あの瞬間、あの時点から、神の小羊なるメシヤ・イメ−ジが、それにとって代ったのである。
Bユダの獅子なる栄光のメシヤは、ユダヤ人が世紀の流れを通じて、抱き続けてメシヤ像である。
しかし預言者達は、メシヤは苦難を受けた後、その栄光に入ることを預言していたのである。(ルカ24・25〜27)
C尊敬し信頼してやまぬ偉大な師が、「見よ、神の小羊。このかたこそ神の子である」と確信にみちて指し示したそのときから、
暗闇を破って出現した太陽の如くに、イエスが彼らの心の中に印刻され、
今やイエスご自身のみが、彼らのすべてとなったのである。
彼らは完全にイエスに捕らえられ、魅了されてしまったのである。
あたかも磁石に引きつけられ密着してしまった鉄片のように。
〜神の小羊なるイエスとの出会い〜
@この師にして、この弟子ありである。
待ちたきもの・・・・それは・・・・弟子にとっては偉大な師であり、師にとってはすばらしき弟子である。
Aまことにうらやましきは、
エリヤとエリシャ
洗者ヨハネと福音記者ヨハネ
イエスとヨハネ
ヨハネとイグナチオ
ソクラテスとプラトン
プラトンとアリストテレス
B真の弟子とは、師にのりうつられしごとく、師の生き写しとなり、「弟子は師のごとく」あらねばならないのである。
Cキリストの弟子たるものは、その神性への参与により、聖霊のくまなき浸透により、
全存在をもってキリストを反映するもの、
換言すればキリストの再現のごときものであらねばならないのである。
他者がその人と出会うことによって、その人を通してキリストを見いだすほどに、キリストを反映する者、キリストの命の表現そのものであらねばならない。
D二人の弟子(ヨハネとアンデレ)は、今や旧(ふる)き師より新しき師へ、旧き宗教から新しき宗教へ、
水のバプテスマから聖霊のバプテスマへ、
シンボルより実体へと移行する。
Eまことに彼らにとって、神の小羊なるイエスとの出会いは、彼らの全生涯を決定的にする重大事件であった。
それが真の出会いなのである。
〜きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう〜
@彼らは未だ何かはしらないが、偉大なもの聖なるものを予感しながら、イエスについて行った(ヨハネ1・37)
それは彼らにとってまさしく新しい出エジプトであった。
モ−セからヨシュア(ヨシュアはヘブル語、イエスはギリシャ語で同様)に移行した彼らは、
まことにヨシュアなるイエスに導かれて、約束の地に到達するであろう。
そこにてメシヤなるキリストより、約束の聖霊を受けるであろう。
A神の小羊は自ら彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導き、生ける水を豊かに飲ましめるであろう(ヨハネの黙示録7・17)
今や彼らは小羊の行く所へは、どこへでもついて行くとの、不退転の決意をもってイエスについて行く。
彼らの善き師(洗者ヨハネ)は、すばらしき花婿に嫁(とつ)ぎゆく愛娘(まなむすめ)を見送るがごとく、喜びに溢(あふ)れてその門出を祝福する。
それこそはメシヤの先駆者の使命であり、その大任の一端を今こそ果たしたとの感動である。
Bいとしい恩師と決別し、新しい師の御跡を慕い、黙々としてついてくる最初の弟子を、イエスは慈愛にみちた眼指(まなざ)しをもって迎える。
「何か願いがあるのか。」(ヨハネ1・38)
C特別重大な願いごと、それを今は心に秘めて言い得ない。
他ではない。主ご自身こそそれである。
「ラビ、どこにおとまりなのですか。」
こみあげる興奮を静めながら、ひかえめに質問する。
D人の心にあるものを透視する新しき師は、彼らの願いが何事であるかを理解しながら、
「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」と優しくこたえ彼らを導く。
Eそこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。(ヨハネ1・38〜39)
〜イエスのところに泊まった〜
@彼らにとってその夜はなんと感動にみちたときであったことか。
イエスの胸に抱かれつつ、みことばをきくことの甘美さ、その恍惚的愉悦、その深奥なる示現、
イエスの愛に全く心奪われ、われを忘れた。
それは一瞬のようであり、ながい時の如くにも思われた。
それ以来ヨハネはいつもイエスのふところに、自分の座席をとり、生涯その座席をとり続けた。
雷の子と言われた彼が、愛の化身となり、大使徒、大聖人、最もキリストに肖(あや)りし秘訣がここにある。
A「あなたのにおい油はかんばしく、
あなたの名は注がれたにおい油のようです。
それゆえ、わたしたちはあなたを愛するのです。
あなたのあとについて、行かせて下さい。
わたしたちは急いでまいりましょう。
王はわたしをそのへやに連れて行かれた。
わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、
ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。
わたしたちは真心をもってあなたを愛します。」(雅歌1・3〜4)
この愛の賛歌はそっくり、彼らのためにあてはまるようである。
〜イエスはメシヤなり〜
@イエスと出会い、イエスのところにとどまること。
彼らのイエスとの親しき交わりは、まだ一夜に過ぎなかったが、イエスはメシヤなりとの確信は、もはや不動決定的なものとなった。
しかし彼らのそれは決して一夜漬けのものではなかった。
Aイエスはメシヤなりとの確信、イエスとの出会いは、彼らのうちの霊的革命をもたらし、彼らを一新するに充分であった。
彼らのメシヤに対する期待は大きくあったが、メシヤは実に彼らの期待以上のもの、はるかに天的な存在であった。
彼らのうちに伝統的にあったメシヤ・イメ−ジは、なんと肉的、政治的、地上的次元のものであったかを、思い知らされたことであろう。
B彼らは今や聖書が啓示するメシヤへの信仰レベルで、イエスをメシヤと信じたのである。
それは驚くべき信仰の大飛躍であった。
メシヤに出合ったという出来事は、個人にとっても重大であるが、世界にとってもまさに世紀の大事、一時代を画する出来事であった。
〜わたしたちはメシヤにいま出会った〜
@メシヤに出合ったという感動は、とどめることのできない強烈な感動であり、感動は更に新たなる感動を呼び、爆発的なものとなり、他者にこの感動を伝えざるを得ないものとなる。
A永い世紀にわたって待ち望まれたメシヤに会ったのである。
メシヤに出会いし者の幸いはあまりにも大きい。
しかしその責任もまた重大である。
アンデレは感動にうちふるえながら、兄弟シモンのところに走ってゆく。
この幸いを兄弟と分かち合いたい望みにかられて。
B彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤにいま出会った。」(ヨハネ1・41)
アンデレは多くを語らなかったが、ただ一言で充分であった。
ことばよりも彼自身の変貌ぶりが、より雄弁にそれを物語っていたからである。
強い芳香に接触したものは、その芳香を行くところに香らせ、それによって接触したそのものを証(あかし)しするように、真実メシヤに出合ったものは、メシヤのみがもつ芳香、いのちの香りを発散するからである。
C「わたしはメシヤにいま出会った。」
キリストとの出会いを全存在をもって体験したものであるなら、この証しは誰でもできる。
今日必要なのは、この生々しい感動的体験の証である。
アンデレの顔を一見するのみで充分であった。
メシヤに出合ったものは、メシヤの顔を受けとり、自分自身の顔に鮮やかにメシヤを反映しているからである。
〜あなたこそ、生ける神の子キリストです〜
@キリストに接触した霊魂は、磁石に触れた鉄片が、他の鉄片を引くように、キリストご自身に他の霊魂を引く引力をもつ者となる。
「そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。」(ヨハネ1・42)
今日世界最大の宗教であるキリスト教も、最初はひとりが他のひとりを導く、個人伝道から開始され、遂に今日の大に至ったのである。
A真の使徒職はメシヤとの出会い、神との一致からのみ成果を期待することができる。
キリストとの一致結合によって、聖霊の充満を受け、キリストのいのちの芳香を発散することによって、人々の霊魂を魅了するのである。
造化は一見どれ程美しく見えても、人々の霊魂を魅了し獲得することは不可能である。
B「イエスは彼に目をとめて言われた。」
イエスはガリラヤの一漁夫に目をとめ、鋭い洞察力を秘めた眼指しをもって、一瞬のうちに今あるシモンと、後あらんとするシモンを見通される。
イエスの尊前に今あるシモンは、ガリラヤより掘り出されし一個の石材の如く、素朴、単純、激情、無学の一介の漁夫に過ぎない。
しかるにイエスは、シモンのうちに、後ある大使徒ペテロを現在において見られたのである。
かくの如きがキリストとシモンとの出会いであった。
C「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケバ(ペテロ、岩の意)と呼ぶことにする。」(ヨハネ1・42)
イエスはこの最初の出会いにおいて、すでに彼のすべてを予見してペテロと呼ばれたのである。
Dシモン・ペテロもまた彼に向かって信仰告白をする。
「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ16・16)
Eシモンという名の平凡なガリラヤの漁夫を、人の魂をすなどる偉大な使徒ペテロに、罪に汚れた人間を聖人、神の人に変えられたのである。
私達もシモン・ペテロと共に、イエスの尊前にひれ伏し、かく信仰告白しよう。
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と。