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@主イエス・キリストが公生涯までの30年間にわたり、隠棲(いんせい)されしナザレより、
・ テベリヤに向かって5km行ったところに、オリ−ブの樹林とぶどう畑にかこまれた、
・ 素朴な小さな町カナがある。
Aイエスは宣教活動のはじめに、このカナの婚礼の席上、水をぶどう酒にかえられ、その結婚を祝福されたのである。
Bイエスの愛弟子であるヨハネは、このイエスの最初の奇跡を、特別深い意味のもとにとらえ、
・ それはイエスの神性とメシヤ性を証明するしるしであるばかりではなく、
・ メシヤの使命を特徴づけるものとしてとらえたのである。
Cまことにメシヤの公生涯のスタ−トを飾るにふさわしいものと、彼には思われてならなかったのである。 |
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@さて、この神秘的な奇跡の意義をとく鍵がここにある。
・ 「この奥義は大きい。それは、キリスト(花婿)と教会(花嫁)とをさしている」(エフェソの信徒への手紙5・32)がそれである。
A「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。」(ヨハネ2・1〜2)
・ イエスの公生涯が始められてより三日目に、このしるしが行われた。
・ イスラエルの古い伝統的慣例によれば、結婚の日、美しい花冠に飾られし花嫁は、数名の乙女達にかこまれ、花婿の迎えに来るのを待ち望む。
・ 夜がおとずれると花婿も数名の友人と共に、花嫁を迎えにゆき、花嫁をともないわが家に帰り、それより婚宴は盛大に七日七夜にわたり行われるのが例である(マタイ25・1〜13)。
Bこの花婿の家は、マリヤと親戚関係にあり、またその日は婚宴の最終日に当たっていた。
・ 結婚して喜びの絶頂にあったそのとき、その時点に恐るべき危機が到来したのである。
・ 人生のドラマは、喜びの裏面は悲劇なのが普通である。
C聖書の中で三日目は重大な意味をもっている。
・ イエスご自身の復活が三日目に行われ、
・ イスラエルの回復も三日目と預言されているからである。
D「さあ、わたしたちは主に帰ろう。
・ 主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、
・ わたしたちを打たれたが、
・ また包んでくださるからだ。
・ 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、
・ 三日目にわたしたちを立たせられる。
・ わたしたちは主を知ろう、
・ せつに主を知ることを求めよう。
・ 主はあしたの光のように必ず現れいで、
・ 冬の雨のように、わたしたちに臨み、
・ 春の雨のように地を潤される。」(ホセヤ6・1〜3)
E預言の計算法は一日を千年、または一日を一年とするのが通例である。
・ 二日の後、三日目は二千年を経過すればを意味し、三千年を意味しない。
・ キリストの復活は死後三日目に起ったが、時間的には丸二日足らずであった。
Fイスラエルの全的復活回復もまた、イエスの公生涯より計算して、約二千年後に起ることを意味する。
Gすでにイスラエルの国家的独立は成就されたのであり、したがって霊的回復もまた必ず近い将来に起るのである。 |
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@イエスはメシヤではないと、一度(ひとたび)否定したユダヤ民族であり、現時点に於いても強く拒否していることには変りはないが、
・ しかし、二千年のながい世紀が流れ去ると共に、イスラエル民族の心の中に、一大変化が起り、
・ イエスをメシヤとして招く時が到来する。
・ 終わりの日に。
A「そしてその後イスラエルの子らは帰って来て、その神、主と、その王ダビデ(メシヤ)とをたずね求め、
・ 終わりの日におののいて、主とその恵みに向かって来る」(ホセア3・5)と預言されている。
Bカナの花婿の家は、その婚宴の終わりの日に、実に危機に直面したのである。
Cそれは婚宴に絶対なくてはならぬ、ぶどう酒がなくなってしまったからである。
・ 今日、イスラエルは建国以来最大の危機に直面している。
・ イスラエルの救い、全的回復の秘訣は、彼らが救い主なるメシヤを切に求め、
・ メシヤとの出会いを体験し、
・ メシヤによる全面的救いと回復とを経験することである。
D「ぶどう酒がなくなった。」(ヨハネ2・3)
・ イスラエルの格言の中で、最もよく知られ、イスラエル人が実際使うものに、「ぶどう酒なくば幸福(よろこび)なし」というのがある。
・ イスラエル民族にとりぶどう酒はなくてならぬもの、まして婚宴においてはなおさらである。
・ そのぶどう酒がついに底をついたのである。
・ 宴会のなかばにしてぶどう酒を欠くことは、招待した客に対して礼をはなはだしく欠くことであり、新郎にとり最大の恥辱とされていた。
・ 婚宴の最終日にして、早くも人生のドラマは悲劇と化そうとしているのである。
・ もはや救いの道を見いだすことは不可能なのであろうか。 |
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@この危機、絶望的な闇の中から、あけの星のごとく希望の光をもたらせしものは、聖母マリヤであった。
・ 聖母は深い同情に溢れ、つつましく「ぶどう酒がなくなってしまいました」(ヨハネ2・3)と、イエスにとりなし祈るのであった。
・ 人の手によってなりしぶどう酒の尽きるとき、救い主の泉から、めぐみといつくしみの泉から、生ける水なる、天来の甘美なぶどう酒が、尽きることなく注ぎ与えられることを信じ、期待し疑わなかったからである。
A聖書はマリヤに関してあまり多くをしるさない。
・ しかし注目すべきことは、神の救いの計画の中で、最も重大な時点において、
・ 必ず、「イエスの母マリヤがそこにいた」(ヨハネ2・1)という事実である。
Bガブリエルが神よりナザレに遣わされし時、マリヤはそこにいたのである。
・ マリヤはロゴスが人性をとり、この世に来たらねばならぬその時、
・ そこにいて「成れかし」と信仰にあふれてこたえ、かくしてロゴスは肉体となり給うたのである。
Cメシヤが公生涯のスタ−トを切り、最初にメシヤのしるしとなるべき奇跡を行い給うそのとき、マリヤはそこにいて協力されたのである。
・ またイエスがメシヤとして最大のみ業、自分自身をいけにえとして、十字架の祭壇上に奉献され、あがないのみ業を成就されしそのとき、マリヤは十字架のもとに立ち尽くし、祈られたのであった。
Dイエスによって贖罪のみ業が成就され、その効果として最初に聖霊が、ペンテコステの日に、エルサレムの高殿にある集会に傾注されしとき、
・ しかしてキリストの花嫁なる教会が生まれいでし時、イエスの母マリヤはそこに祈っておられたのである。
E愛情深くデリケ−トで、何事にも注意深く配慮するマリヤは、まだ誰も気付かないうちに、ぶどう酒がなくなってしまったことに気付いたのである。
・ しかし、マリヤは絶望することもなく、取り乱すこともなく、ただイエスを信じ、信頼をこめて「ぶどう酒がなくなってしまいました」と、そっとイエスに耳うちし、とりなし祈ったのである。
F「イエスは母に言われた、『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』」(ヨハネ2・4)と、イエスはこたえられのであった。
・ 一見イエスはマリヤの願いを拒否されしもののごとくみえる。
・ しかし、それは拒絶ではなく受諾である。
・ 「14万4千のイスラエルに、聖霊をもって印する、わがときはまだきていない。しかし、やがてそれは起る。そのために準備し、なお祈りのうちに期待せよ」(ヨハネの黙示録7・2〜4)を意味する。
Gそれゆえマリヤは直ちに、メシヤの救いのみ業の行われるために、最善の準備にとりかかり、僕(しもべ)たちに言った。
・ 「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい。」(ヨハネ2・5)
・ マリヤは未だ見ずして、信仰をもって先取りしているのである。
・ たとえ人間の理性では信じがたいことであるとしても、信仰の世界には「はい」あるのみである。
・ 「なぜなら、神の約束はことごとく、彼(キリスト)において『しかり』となったからである。
Hだから、わたしたちは、彼によって『アァメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。」(コリントの信徒への手紙U1・20)
・ 聖母の厚い信仰、不動の信仰、生きた積極的信仰、「成れかし」の信仰は、僕(しもべ)達にも浸透し、僕達は今や主の命令を期待のうちに待つのみである。
I「そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。」(ヨハネ2・6)
・ 空の石がめが六つ、その容積は同一ではないが、ユダヤ人の清めの儀式のためにそこにあった。
J七つは完全数であるが、六は不完全数である。
・ この不完全数の六つの石がめは、ユダヤ教のシンボルとなっている。
・ ユダヤ教の律法と儀式は、人間の内部、心の最奥に宿る原罪をきよめ、人間を聖なるものとすることはできない。
・ それゆえ不完全なのである。
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@人間の人格の最奥に宿る原罪をきよめ、罪より解放し、聖とするのはただ主イエスの御血のみ、聖霊のみである。
A「イエスは彼らに『かめに水をいっぱい入れなさい』と言われた。」(ヨハネ2・7)
・ 遂に神のときがきたのである。
・ かめに一杯、水をくんで入れよとの命令はくだされた。
・ 忠実な僕達はいっせいに、救い主の井戸より水をくみはじめた。
・ うたうたいつつ。
B「その日あなたは言う、
・ 『主よ、わたしはあなたに感謝します。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 見よ、神はわが救いである。
・ わたしは信頼して恐れることはない。
・ 主なる神はわが力、わが歌であり、
・ わが救いとなられたからである。』
・ あなたがたは喜びをもって、救い主の井戸から水をくむ。」(イザヤ12・1〜3)
C水はたちまちにして、6つの石がめに満々とみち、今や溢れ流れる。
・ そのときイエスは立ち上がり、その一つ一つの満たされた水がめを、御名によって聖別し祝福された。
D6つの石がめの水面は、イエスご自身の神の栄光に輝く御顔を、鏡のように写しとった。
E地よりいでし水の中に、天のものが入ったそのとき、水は一瞬にして根本的に、他の物質に変化し、全く新しいものに変化してしまったのである。
F「そこで彼らに言われた、『さあ、くんで、・・・・・持って行きなさい。』すると、彼らは持って行った。」(ヨハネ2・8)
・ 使徒言行録9章15節において、「主は仰せになった、『さあ、行きなさい。・・・・イスラエルの子らに、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である』」と。 |
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@カナの婚宴の終わりの日に招かれた多くの人々は、メシヤご自身より提供されし、天来の新しいぶどう酒のみをのみ、その甘味に陶酔し恍惚となり叫んだ。
・ 「初めのものより、よいぶどう酒である」(ヨハネ2・10)と。
A初めのもの(旧約)に、今や新しきもの(新約)がとって変わったのである。
・ ユダヤ教の儀式に使用された石がめを、主が用い給うたのは、律法をこぼつためではなく、かえって成就せんためであり、ユダヤ教において象徴されていたものの実現であることを啓示するためであった。
Bカナの奇跡で注目すべきことは、イエスのこのしるしが、物質の根本的変化を示していることである。
・ メシヤの最もメシヤ的使命は、人間を根本的に新創造することにある。
・ イエス・キリストによって、人間が本質的に全く新しく生まれ変わることの可能性を啓示されし点である。
C「それゆえ、もしだれかがキリスト(メシヤ)にある(接ぎ木される)なら、その人は(全く新しい被造物)一つの新しい創造なのです。
・ 古いもの(従来の道徳的また霊的状態)はすでに過ぎ去ったのです。
・ ごらんなさい、新鮮な(新しい)ものが来ました。」(コリントの信徒への手紙U5・17、詳訳)
Dイエスの神性とメシヤ性を信じ、御名によって神的生命に参与するなら、何人(なんびと)も聖人となる可能性があるのである。
・ ここにこそこのしるしの特色が存在するのである。
E「わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。
・ 彼の与えるものはわたしの口に甘かった。
・ 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。
・ わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」(雅歌2・3〜4)
Fメシヤが介入されたその瞬間、カナの婚宴は一転して性質を変え、小羊の婚宴に変化したのである。
・ 「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録19・9)
・ 「この奥義は大きい。
・ それは、キリスト(真の花婿)と教会(彼の花嫁)とをさしている。」(エフェソの信徒への手紙5・32) |
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@終わりの日の最も危機に直面したそのとき、真の花婿なるイエスと彼らは出会ったのである。
・ 終末における最も大いなる艱難に出会うとき、14万4千のイスラエルは、メシヤなる花婿に出会うであろう。
・ そのためにこそ僕達は、救い主の井戸から水をくむべきである。
A「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。
・ そして弟子たちはイエスを(メシヤと)信じた。」(ヨハネ2・11)
B「その日、あなたがたは言う、
・ 主に感謝せよ。
・ そのみ名を呼べ。
・ そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。
・ そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。
・ 主をほめうたえ。
・ 主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。
・ これを全地に宣べ伝えよ。
・ シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。
・ イスラエルの聖者はあなたがたのうちで
・ 大いなる者だから。」(イザヤ12・4〜6)
Cイスラエル民族が、真の花婿なるイエスに出会い、
・ イエスなるメシヤの杯より、生ける水なる聖霊を受け、
・ 一体とせられることによって、
・ しかり、回心し新生せし、イスラエル民族による世界宣教を通して、
・ 人類もまたイエスなるメシヤと出会い、
・ イエスご自身よりうける杯、
・ 永遠の命への参与、
・ 永遠の契約への参与によって、
・ 花婿なるキリスト、
・ 神と一体とせられるのである。 |