〜出会い〜


〜見よ、世の罪を取り除く神の小羊〜
@「見よ、わたしはわが使者をつかわす。
彼はわたしの前に道を備える。
またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。
見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。」(マラキ書3・1)
A永い世紀の流れを通じて、待ち望まれた契約の使者なるメシヤ、
その来臨の切迫した時、
旧約の最後の預言者マラキ(前430年頃)は、感動に打ち震えつつ声を大にして、この重大預言をしたのである。
重大な預言には細心緻密な研究が必要である。
Bこの預言では、
第一にわが使者とは、すなわちメシヤの先駆者、
第二のは、アドナイを意味し、
第三の契約の使者は、約束のメシヤを意味しているのである。
Cこの預言がマラキによって告げられて以来、すでに430年の歳月は流れた。
Dしかして、待たれしメシヤの先駆者洗者ヨハネ(エリヤ)は遂に出現し、イエスを指し示して言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29)
「その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである」(ヨハネ1・33)と。
〜その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない〜
@約束されていた契約のメシヤは、聖書の預言成就のために、神殿に出現するはずである。
A「ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。」(ヨハネ2・13)
B主であり、契約のメシヤであり、贖い主であり、大祭司長でもあられる主は、
今こそご自身の神殿に来られたが、その神聖であるべき神殿に、何を見られたであろうか。
こともあろうにそこには悪徳商人達が、聖なる宮を商売の家となしていたのである。
それは大いなる冒涜(ぼうとく)のかぎりであった。
C「その来る日には、だれが耐え得よう。
そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。
彼は金をふきわける者の火のようであり、・・・・・・彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。」(マラキ3・2〜3)
D清め主であられる主は立ちあがらざるを得ない。
E「なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、
はとを売る人々には『これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな』と言われた。」(ヨハネ2・15〜16)
F契約の使者メシヤの登場と共に、形式主義、儀式主義の過越の祭、
やぎ、羊、牛などの血による犠牲は、真の過越であり、
真実世の罪を取り除く神の小羊の出現によって、
古い不完全なものは取り除かれ、シンボルは実体と入れ替わらねばならない。
G「この幕屋というのは今の時代に対する比喩(ひゆ)である。
すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。
それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。
しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、
手で造られず、
この世界に属さない、
さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
かつ、やぎと小牛との血によらず、ご自身の血によって、
一度だけ聖所にはいられ、
それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブライ人への手紙9・9〜12)
H契約のメシヤは、この改革の時を目指し、神殿を清め給うたのである。
I「その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。」(ゼカリヤ14・21)
ゼカリヤの預言したメシヤ、マラキが預言せしところのメシヤは、その預言を成就実現することによって、メシヤのしるしを公然と啓示したのである。
突如として出現したイエスの思い切ったこの行動を外見的に見るとき、彼こそ神殿を冒涜するものとさえ思われる。
一体彼は何者なのか、彼はいかなる権威によってそれを堂々となしたのであるか。
〜宮よりも大いなる者がここにいる〜
@そこで、ユダヤ人はイエスに言った、
「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」(ヨハネ2・18)と。
Aユダヤ人達は契約のメシヤの御業として預言されていた通りの宮きよめが、白昼公然となされるのを、いま目撃したばかりである。
Bイエスのこの象徴的な行為こそは、疑う余地のないメシヤのしるしであった。
しかし民族主義に偏向し、地上的政治的勝利をもたらすメシヤ・イメ−ジが、かくも彼らを霊的盲目者となしたのである。
「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍(にぶく)くなり、
その耳は聞こえにくく、
その目は閉じている。」(マタイ13・14〜15)
としるされている通りである。
Cそこで、イエスは彼らに答えて言われた、
「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネ2・19)と。
単に肉の耳をもって聞くなら、何とそれは冒涜的にさえきこえることであるだろう。
事実ユダヤ人は後日、イエスを死刑にする罪状の一つとして、このことばをあげている(マタイ26・61)。
Dユダヤ人はイエスの語った象徴的、預言的なこのことばの意味を理解することができなかった。
それゆえ彼らはやがて自らの手によって、この神殿をこぼつこととなるのである。
ひとたび徹底的に歪められしメシヤ・イメ−ジを、たてなおすことは容易ではない。
それゆえ神の現存の真の神殿であるメシヤを、十字架にあげ殺すにいたるのである。
その結果、紀元70年、ロ−マ軍の手によって、エルサレムも神殿も、徹底的に破壊されることとなったのである。
E「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(マタイ1・23)
これこそは神殿のまことの意味であり、
ここにおいて神殿はユニ−クな意味をもつのである。
イエスは自分自身が真の新しい神殿であるばかりではなく、
「宮よりも大いなる者がここにいる」(マタイ12・6)と、
神殿よりも自己を偉大なるものとして啓示されたのである。
F今やイエスはご自身が契約の使者であるばかりではなく、その宮にくるアドナイとして、宣言されたのである。
これは明らかに神性宣言である。
〜イエスこそは神との唯一の人格的な出会い〜
@ユダヤ人はエルサレムの神殿にこそ、唯一絶対の神は現存し、
全世界ここにおいてのみ礼拝が行われるべき、聖なる場所と考えている(ヨハネ4・20)
A神の栄光シェキナ、神の現存は、インマヌエルと称(とな)えられる、言(ロゴス)が肉体となったイエスご自身のうちにこそ臨在し現存しているのである(ヨハネ1・14)。
それゆえ、このお方のみが神を目に見えるように啓示されたのである(ヨハネ1・18)。
それゆえこのお方と真に出会ってこそ、真の神殿であるこの方の人性の最奥に、神を礼拝するのである。
なぜならこのお方こそメシヤであると同時にアドナイであられるからである。
キリストを通して御父を礼拝するのみではなく、霊とまこととをもって、御父と共に御子をも礼拝するのである。
B事実、ロゴスが受肉し、預言通りダビデの町ベツレヘムに、契約のメシヤが誕生したとき、
三人の東方の博士達は、「家にはいって、母マリヤのそばにいる幼子(イエス)に出会い、
ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた」(マタイ2・11)のであった。
彼らは神の啓示に従い、信仰の眼指しのもとに、イエスの人性という神殿のうちに、シエキナ、神の栄光を拝したのである。
C今や人類は、神の栄光臨在の完全な場所である、真の神殿であるイエス(インマヌエル)との出会いにおいて、神と出会うのである。
イエスこそは神との唯一の人格的な出会いの場である。
〜わたしを見た者は、父を見たのである〜
@契約のメシヤであり、大祭司長であり、贖い主であり、
同時に世の罪を取り除く全き犠牲の供え物でもある、神の小羊が十字架上の祭壇に奉献され
贖いのみ業が成就されたその瞬間、至誠所の幕は裂けたのであった(マタイ27・51)。
A「こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ
彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのである。」(ヘブライ人への手紙10・19〜20)
Bイエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14・6)
Cイエスこそは神と出会い得るただ一つ道であるとともに、その終局目的でもある。
D「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14・9)
〜神の聖なる都、新しきエルサレム〜
@もはや永遠にこぼたれることのない、神の聖なる都、新しきエルサレムにおいてはどうであろうか。
A「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。
先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」(ヨハネの黙示録21・1)
従来の古きものは一切消え去り、一新され、すべてのものは全く新たにされた。
B「また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、天から下って来るのを見た。」(ヨハネの黙示録21・2)
C「見なさい、神のみすまいが人々とともにあります。
神は人々の中にお住まいになり、人々は神の民となり、
神ご自身が人々といっしょにおられ、彼らの神となられます。」(ヨハネの黙示録21・3、詳訳)
D「私は都の中に神殿を見ませんでした。
全能の神であられる主ご自身と小羊ご自身がこの都の神殿なのです。」(ヨハネの黙示録21・22、詳訳)
E「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水(聖霊の発出)の川をわたしに見せてくれた。
この川は、神と小羊との御座から発出して、都の大通りの中央を流れている。
・・・神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。
彼らの額(ひたい)には、御名がしるされている。」(ヨハネの黙示録22・1〜4)
F「御座にいますかたと小羊とに、
さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、
世々限りなくあるように。」(ヨハネの黙示録5・13)ア−メン。